仏教の話

「苦しみは滅する事ができる(滅諦)」(四聖諦③)

suffering can end
kutei

今回は「四聖諦(ししょうたい)」の中の「滅諦(めったい)」の説明をさせて頂こうと思います。

よろしくお願いいたします。

こんな方に読んで欲しい。
  • 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
  • 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
  • 仏教について、これから学びたいと思っている方。
  • 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。

真の幸せとは……。

四聖諦の中の「滅諦」

四聖諦とは、おしゃかさまが悟りにいたる道筋を四つの段階で顕した教えになります。

四つの段階とは、

①「人生は苦しみである」という発見:苦諦

②「苦しみの原因は渇愛(執着)である」という発見:集諦

③「苦しみは滅する事ができる」という結論:滅諦

④「苦しみを克服する為の方法がある」という方法論:道諦

path to enlightenment
悟りへの道しるべ。

になります。

その中でも今回は、③の「苦しみは滅する事ができる」についての話となります。

重要なポイント①「一切は苦しみ。」

これはとても大切なポイントなのですが、おしゃかさまは「人生は苦しみである(苦諦)」という考え方から、この「四聖諦」のお話を始めています。

「人生には楽しい事もあれば、苦しい事もあるよね」という見解からではなく……。

There are some fun things in life...
人生、楽しい事もあるよね……。

「人生のすべては苦しみである」という見解から「四聖諦」は始まっているのです。

living is suffering
生きる事は苦しみである。

例えば、おいしいモノを食べる幸せ、ってありますよね。
しかし、いくらおいしいモノでも、食べ続けていると苦しくなります。
いつか飽きてきます。
欲しくて買いにいったのに、売っていないと苦しくなります。

食べ続けていると苦しくなるので、今度は横になります。
しかし、横になり続ける事も苦しみです。
「寝相」という現象がありますが、私たちはじっとしている事が既に苦痛なのです。

寝続けると苦しいので歩きます。歩く瞬間は「快感」を感じます。
しかし、歩き続けると苦しいので座ります。座る瞬間は「快感」を感じます。
しかし、座り続けると苦しいので立ちあがります。立った瞬間は「快感」を感じます。
しかし、立ち続けると苦しいのでまた歩きます。

この繰り返しです……。

でも「そう考えるなら『瞬間的な快感(幸せ)』はあるんじゃない⁈」と思いますが、ブッタは「そうではない」というのです。

「幸せという状態」が別にあるのではなく、何をしても苦しいから変化(刺激)を求めているだけで、私たちが感じているのは常に「苦しみだけなのだ」というのです。

deception
苦しみを、違う苦しみで誤魔化している……。

瞬間的な「快感」はあるかもしれませんが、それは最初の苦しみが「誤魔化された」瞬間だけで、それはまた「新しい形の苦しみが始まっただけなのだ」というのですね……。

かくして「人生の一切は苦しみである」と、おしゃかさまは言い切っているのです。

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重要なポイント②「苦しみの原因は、刺激に対する執着」

私たちは、ただ生きているだけで苦しいので、変化(刺激)を求めます。

その結果、受けた瞬間に感じる快感に「幸せ」を感じ、それに執着してしまうのですね。

しかし私たちに変化(刺激)を与えてくれるモノはすべて「かりそめ」なモノなのです。

例えば、おいしいケーキを食べると幸せを感じますが、ケーキに「幸せ」はついていません。
ケーキを食べた事によって「内側」から「あ~しあわせ~」という気持ちが沸いてきます。

Happiness comes from inside
外界にあるものはキッカケでしかない……。

あくまで外部にあるモノは、内側を刺激する「キッカケでしかない」のですね。

しかし私たちにはそんな事が分からないですから「外側に有るモノが自分に幸せを与えてくれる」と信じて、外部にあるモノに執着していきます。

Believe that external things bring happiness
外部にあるモノが幸せを運んできてくれると信じて渇愛する。

かくして、そのかりそめの執着「渇愛(かつあい)」によって、私たちは苦しみの原因を「もっともっと」と外に求め続けるハメになるようなのです。

これが苦しみの原因である執着「渇愛」です。

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おしゃかさまは、外部にあるモノは内側の喜びを刺激する「キッカケ」でしかない事を知った上で「そんなモノをいくら追い求めていても、本当に幸せにはなれませんよ」とおっしゃっているのです。

そして「本当のしあわせ」に気づく為には「渇愛」によって外部に向いている心を内側に向け、心が完全に安らいだ状態「涅槃(ねはん)」を求める事しかないんですよ、と、おっしゃっているのですね。

涅槃とは

涅槃とは、サンスクリット語で「吹き消す」という意味を持つ言葉です。

煩悩の炎が吹き消された「静かな状態」という事ですね。

つまり「心が静かで穏やかな状態」をおしゃかさまは悟りの目標の姿とした訳です。

The goal of Buddhism is to overcome suffering and have a calm state of mind.
苦を克服した心が穏やかな状態こそ、仏教の求めるゴールです。

違う言い方をすれば、おしゃかさまは、本当の幸せ(苦しみの克服)とは、欲望を満足させる事でも、すごい能力の持ち主になる事でもなく「心が穏やかな状態を目指す事ですよ」と言っているのです。

それが「苦しみは消滅する事ができる」と宣言されている理由です。

これが「滅諦の教え」になります。

苦しみの克服こそが最上の「悟り」。

おしゃかさまは早い段階で、その当時に「最高峰」と考えられていた悟りの境地には到っていたようです。

しかし、それでは満足できなかったようなのですね。

その境地では、おしゃかさまが求めていた「苦しみの克服」までには到れなかったようなのです。

そこでおしゃかさまは、その当時メジャーではなかった修行法である「自分の心を観察し続ける瞑想(ヴィッパサナー瞑想)」を続けた結果、ついに「完全なる心の安らぎ(涅槃)」の境地に到る事ができたようなのです。

ですから、おしゃかさまは「超能力を身につける」とか「願いをなんでも叶えてしまう力」とか「宇宙の全てを見通す力」とか、そういった能力をいくら開発しても「真の安らぎ」には到達しないと言っているのです。

「真の悟り(涅槃)とは、心が究極に安らいだ状態である」とおっしゃっているのですね。

それが「滅諦の教え」になるのです。

まとめ

如何でしたでしょうか。

穏やかで静かな心こそ「真の幸せであり悟り(涅槃)」。

この話のポイントは、おしゃかさまは「人生には楽しい事もあれば、苦しい事もあるよね」とは言っていない、という所なんです。

重要な事は、悟りを開いたおしゃかさまが「悟った慧眼」でこの世界を観察した時「この世界には苦しみしかなかった」と看破された、という所です。

これがもし「人生には楽しい事があれば、苦しい事もあるよね」という事であれば「苦しみを減らして楽しい事が起きる呪文」なんてモノがおしゃかさまによって発見されていたかも知れません。

いや、実際に宇宙には、そんな呪文もあるかもしれないんですよ。

しかしおしゃかさまは「それを選んでいない」という事なんです。

そんなモノがあったとしてもそれは「不完全なまやかし」である事を知ってるからです。

そんなモノで瞬間的に欲望を満足させても「完全なる苦しみの克服には到れない」という事を知っているのです。

真の悟り(究極の人間の目的)とは、欲望に惑わされて振り回される状態を克服して「心が常に穏やかで静かな境地を目指す事ですよ」とおしゃかさまはおっしゃっているのですね。

穏やかで静かな境地こそ求めるべき境地(涅槃)

おしゃかさまは「超能力を養いましょう」とはおっしゃっていません。

「宇宙の全てを知りましょう」とも言っていません。

おしゃかさまは「心の安らぎ」を「涅槃(究極の悟り)」と見極めて、私たちに勧めているのです。

「『苦しみの克服』以上に、私たちに必要なモノがありますか?」と。

その道理を四諦説によって解き明かし、私たちが「苦」の中で生き続けているという事実を発見し、その「苦しみは克服する事ができますよ」と宣言してくれているのがこの「滅諦」の教えなのですね。

続く「道諦(どうたい)」では「どうすれば涅槃にいたる事ができるのか」をくわしく教えてくれています。

ぜひ道諦についてのブログも読んでみて下さいね。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

くてい 拝

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まやば くてい
まやば くてい
僧侶・カウンセラー
仏教が取り扱う範囲って結構ひろいです。私はこのサイトを通じて、これから仏教を学ぼう、という方に、まずは広い目で「仏教や、宗教のできた土台」を学んで頂き、そののちに興味の方向にあわせて学びを深めていく事の、お手伝いができたら良いな、と思っているんです。
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