八正道④「正業」について(3/4)
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正し行いとは?
おしゃかさまが説いた「正業」についての具体的な教えは三つです。
- 殺さない
- 盗まない
- 邪淫をしない
このどれもが「否定系」なのは、私たちは基本的に『自分の命を守る行為』を選んでしまうので、無意識に生きていれば「自分を生かす」為に、他の生物の命を奪い、盗みをし、邪な性生活を選んでしまう恐れがある、という事のようです。
それでは、このそれぞれについて、じっくり見ていきましょう。
殺さない
正業の一つ目は「殺さない」です。
私たちはいともかんたんに「蚊」などの命を奪ってしまいますよね。
目の前を飛び回っていれば、パチン、と叩き潰してしまう事に、そんなには「罪悪感」を感じないかもしれません。
「私に害をなすものであれば、殺してしまっても何も問題はない」といった所でしょうか……。
わがまま
上座仏教のお坊さんである、スマナサーラ長老は著書の中で「なぜ(他の生命を)殺してはいけないか」について、このように説明しています。
それでもなぜ(人は)他を殺すかというと、「他を殺してでも自分が幸福に生きたい」と思うからです。他を殺したら自分も殺されると分かれば、殺すことをためらいます。
『「自ら確かめる」ブッタのおしえ』アルボムッレ・スマナサーラ著
ゆえに法律によって死刑・終身刑などで脅されて、私たちは人殺しを抑えられています。もし自分が安全であるならば、他を殺すために核爆弾、弾道ミサイル、生物化学兵器なども喜んで開発するのです。
科学の発展の名のもとに、自分の安全を確保したうえでよりたくさん、また放射能など でじりじり時間をかけて曾孫の時代まで人を殺せるように努力するのです。この世界は、あまりにも非論理的で残酷です。
「なぜ蚊を殺すのですか?」と聞けば「蚊は、私に害を為すから」と答えるかもしれません。
でも、そんな私たちも自然を破壊し、歩けば虫を(無意識にも)踏みつけ、他の命に充分「害を為して」います。
もし、そんな方が「蚊」の立場になったなら、今度は「人間達は、ほおっておけば、自分達を殺すから、殺しても問題はない」と考えるのではないでしょうか。
そう考えると、それってただの「ポジショントーク」なのかもしれませんよ。
ポジションが変われば、自分に都合のよい発想に変わるだけ……。
「自分を害するものの命は排除しても構わない」というのは、とても「わがまま」な発想といえるのではないでしょうか。
ただ、特性を生きているだけ。
蚊は、ただ生きる為に動物の血を吸っているだけです。
その事に関して、インドの聖者さまの、こんなお話があります。
聖者さまが、お弟子さんとふたりで川のそばで瞑想してました。
すると川上から、サソリが流されてきました。
聖者様は「おお、かわいそうに」といって、サソリを川から助けだそうとします。
しかしそのたびにサソリに刺されて……何度も何度も、救出に失敗します。
その姿を観たお弟子さんは、とても見ていられなくなってお師匠さんに言いました。
「お師匠様。助けようとしているサソリに刺されるなんて馬鹿げています。そんな恩知らずなサソリは、ほおっておけばいいじゃないですか。」
すると、やっと助けたサソリに対し、満足げに微笑みながら聖者様はいいました。
「誰かが手を出せば、ついつい刺してしまうのは、サソリの生まれ持った特性なんだよ。そして『困っている命がいたら、助けざるを得ない』というのは私の特性なんだよ。お互いがただ、自分の特性を発揮していただけなんだよ」
蚊が血を吸うのは、蚊の特性です。
私たちが他の命を頂いて生きながらえているのも、私たちの特性です。
他の動物は「生きる為」にのみ、その特性を生かしています。
人間だけが、特性の為だけでなく「不満から」「楽しみから」「喜びから」他者の命を殺しています。
私たちは他の生命に対して、もっと謙虚になる必要があるのではないでしょうか……。
自分が殺されたくないように……
なぜ「殺してはいけないか」に対しての、おしゃかさまの答えはハッキリしています。
すべての生命は、暴力に脅える。
すべての生命は、死を恐れる。
己が身にひきくらべて、殺してはならない。
殺させてはならない。
ダンマパダ 一二九
自分が暴力や死を恐れるように、他者も暴力や死を恐れています。
「自分がされて嫌なことは、他者にもしない」
これがおしゃかさまの答えです。
以下、スマナサーラ長老の解説を紹介します。
「殺すなかれ」が意味しているのは「私を殺すな」ということだと分かるのです。精神的に追いつめられない限り、殺して欲しいと思う生命はいません。殺して欲しいどころか、普通は、叱られることも、無視されることもいやがります。
『「自ら確かめる」ブッタのおしえ』アルボムッレ・スマナサーラ著
この「自分を殺して欲しくない」を他人にあてはめれば、「人を殺すな」ということになります。
「人を殺してはいけない」が当たり前だと思っているのは、「自分を殺して欲しくない」と思っていることが生命 にとって確固たる事実だからです。
「私を殺すな」ということが、人を殺してはいけないという言葉の意味なのです。
(中略)人が生きているということは、「自分を殺して欲しくない」という証拠です。その事実を他者との関係にあてはめれば、「他人を殺すな」ということになります。
より普遍的に言えば、人は幸福で長生きしたいのですから、殺してはいけないのです。自分も他人も生きていきたい、死にたくはないと本来思っているのだから、だれも殺してはいけないのです。
(中略)また、殺してはいけないのは人間だけだろうと思うことは、都合のよい言い訳です。
人間だけでなく、どんな生命も死にたくないのです。仏教の不殺生戒では、「人を殺すなかれ」ではなくて「殺生するなかれ」となっています。
それこそが正しい普遍的な倫理・道徳だと言えるのです。
「なぜ殺してはいけないのですか?」
という質問は、たまにテレビなどでも聞きますが、この質問に対して、なかなか明確に答えられる人はいませんよね。
簡単なようで、とてもドキッとする質問です。
しかしおしゃかさまは、何千年も前に、とてもとても明確に、お答えになっていたのです。
盗まない
では次に正業の二つ目である「盗まない」という事について考えてみましょう。
これも仏教では定義が厳密に決まっていて「未だ自分に与えられていないモノを求めない」という事になります。
つまり「(今は)自分のモノではないものを欲しがらない」という事になりますね。
「与えられたモノだけで満足しなさい」という事にもなります。
与えられているものの中で考える。
私たちはすでにいろんなものを与えられています。
この体も、親から頂いたものですね。
頂いたモノは、自分に使う権利があります。
しかし、未だ、もらっていないモノまで求めるのは「ワガママ」になるというのです。
例えば「あなたの高い鼻が欲しいから、わたしに頂戴」というのは通用しませんよね。
私たちは、手にしたモノの中で人生を「楽しんで」生きていくしかないのです。
これはトランプなどのゲームで考えると分かりやすいと思います。
トランプのようなカードゲームでは、配られたカードの中で勝負をしますよね。
与えられたカードの中から作戦を立てて「ワクワクしながら」勝負をします。
いや。「勝負をするしかありません」。
「配られたカードが嫌だから、自分だけもう一度カードを引き直します」というのは、ワガママですよね。
ゲームでも、人生でも通用しませんよね。
「あなたのカードが欲しいから盗みます」というのも通用しないです。
与えられたカード(条件・モノ)を駆使して「楽しく」生きていく。
それが仏教が進める「生き方」でもある、という事ですね。
感謝の心
人は「もっともっと」と、今より、さらに多くのモノを求めます。
それは返せば「今あるものに満足していない」という事にもなります。
そのような方は、いくら求めているモノを手にしても、また「足りない、足りない」という思いに駆られ続けてしまうのではないでしょうか……。
仏教が求めているのは「我慢」ではなく「本当の幸せ」です。
欲しいものを手にしても、さらに欲しいモノを見つけて苦しむ。
これを仏教では「渇愛(かつあい)」といっていますが、そんな状態ではいつまでたっても幸せにはなれません……。
「盗まない」という教えの中には「満足する事を知る」という教えも含まれているようです。
4/4に続く……。