八正道①「正見」について(後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
正見とは……。
すべてに繋がってくる正見。
前回の続きです。
無常
おしゃかさまは「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といって「この世にあるものはすべて変化していく」といいました。
日本人は儚く散っていく草花を観て「無常だな~」といったりします。
しかしこれはそういった「情緒」の話ではありません。
「この世にあるものはすべて変化していく」という話なのです。
「この世にあるものはすべて変化していく」と観察するのが「正見」なのです。
しかし私たちは、モノが壊れると驚きます。
それは、どこかで「壊れない」と感じているからです。
人間関係が壊れると驚きます。
それは、どこかで「壊れない」と思っているからです。
同様に、健康が……、老いが……、死が……。
私たちは驚き、悲しみます。
そこには「怒りの感情もわいている」とブッタはいいます。
しかしそれは「邪見」なのです。
「この世にあるものに永遠を感じている」というのは「邪見」になります。
よくよく観察してみますと、自分自身の心や体でさえも日々変化していくのですから、他者や自然、モノや人間関係が「常に変化」していく事は当たり前のことではないでしょうか……。
これは例えば「親子の愛」がある日突然なくなる、という話ではないんですよ。
親子の愛の形だって、日々変化していっているのではないでしょうか。
もっと言えば、瞬間瞬間に、喜んだり、怒ったり、悲しんだり……していますよね……。
そう考えると「人との関係性」も同じようで……常に一定ではないことが分かってきます。
これは「悲しい話」でも「むなしい話」でもありません。
それがこの世にある一切のモノの「普通の状態」なのです。
そう観察することが「正見」になります。
「永遠の愛」があるのではなく、愛し合う人々には「愛を永遠にしていきたいというお互いへの気遣いと努力」があるのではないでしょうか……。
しかし、人は、自分の変化も受け入れられなければ、自分以外の変化も受け入れられない。
そして悩み、苦しみ、怒る……。
それは、よくよくかんがえてみれば、とっても「不自然」で「わがまま」な事だとも言えます。
これが仏教的には「邪見」となるのです。
私も、大切にしているモノが壊れたら驚きますしショックを受けます。
しかしよくよく観察してみたら「壊れないと思っていた根拠はどこにもない」ことが分かってきます。
自分だって日々「変化して」いきます。もっと言えば「瞬間的に」変化していっています。
そう気づいたとき「あぁ、最初から、全てのモノは常に変化して当たり前なのだ」と思えるようになるのではないでしょうか……。
「手にしたモノすべて永遠である」と感じて生きるのと「すべてのモノは変化していく」と見極めていきていくのではずいぶん生き方のスタートが違ってくるように思います。
「変化」をうけいれられたら、生きるのは随分楽になりそうですね。
これが「正見」になります。
無我
それでは、なぜ「すべてのモノは変化していく」のでしょうか。
それは「すべてのものに実体がない」からです。
例えば、ここに「ガラスの器」があるとします。
この器にお茶をいれたら、コップとしてつかえます。
タバコの灰を入れたら「灰皿」になります。
花を生けたら「花びん」になります。
ガラスの器に最初は、特定の「意味」はありませんでした。
これは、ある「条件」を与える事によって、ある「意味」をもつようになった、という事なのです。
これが「すべてのものには実体がない(無我)」という事になります。
このように「すべてのものには決まった形がない」と観察する事が「正見」となります。
この例えでいえば「大切な花びんを割ってしまった……」などと「たまたま与えられた花びんという性質」に固着してしまうのは「邪見」となります。
違う例えを話します。
缶詰は、缶とシーチキンの組み合わせです。
中身がコーヒーになれば「缶コーヒー」になります。
つまり、シーチキン缶や缶コーヒーは単体では「存在していない」とい事になります……。
車は、鉄とゴムの組み合わせ。
テレビも、たくさんの部品が組み合わさっています。
部品単体でもらってもうれしくありませんよね(笑)。
同じように人間も、たくさんの部品が「組み合わさって」生きています。
さてここで質問なんですが、あなたの「主体」ってどこにあるんでしょうか?
脳?心臓?
しかしどちらも「単体」では存在することができません。
脳だけあっても「あなた」ではないですし、心臓だけあっても「あなた」じゃないですよね……。
いろんなものが「組み合わさって」あなたが構成されています。
「あいつはオレを傷つけた」といいますが「要素と要素の組み合わせ」でしかないあなたの一体どこが傷ついたというのでしょうか?
電化製品と同じで、人の体も部品が組み合わさることによって動いているのです。
どこにも「主体」がないんです。
これが「無我」という事です。
さらには、ある人と人の組み合わせが「友人」にもなれば「職場の仲間」ともなり、「恋人」や「夫婦」にもなります。
昨日まで仲が良かった「組み合わせ」があるとき「ライバル」「敵」「絶交」「離婚」になる事もあったりします。
全ては人と人との流動的(無常)な「組み合わせ」でしかないので「絶対的な形」なんてありようがないのです。
これも「すべてのものには実体がない(無我)」という事になります。
このように「すべてのものは要素の組み合わせでしかなく、絶対的な形がない」と観察する事が「正見」となります。
「なぜこの関係がおわってしまったのだろう……」と悩んでしまうのは、そこに「絶対的な姿ががある」と観ているからです。
悩んでいる「私(我)」が存在すると思っているからです……。
これは「邪見」となります。
因果
因果とは「原因と結果」という事です。
ここでの「正見」は「物事は偶然に起きているのではなく、因果によって起きていると理解する」という事ですね。
ちなみに、よく「あなたのお家は先祖の因果が悪いから、運勢が良くないのよ」なんて言うおばちゃんがいたりしますが、それは「因果」の使い方を間違っています。
それは「邪見」です。
因果とは「原因と結果」という事です。
今、起こっている事「結果」があるのは、何か過去にその出来事を引き起こす「原因」があったという事です。
これは、とっても科学的な話です。
ただおしゃかさまは「人間にはその原因をすべて突き止める事はできませんから、無理に調べようとしなくていいですよ」と戒めています。
例えばあなたが交通事故にあったとします。
その原因はあなたの不注意からはじまり、その時間にその場所に行ったこと……と、いくつか考えられます。
しかし厳密に言えば、昨日食べたご飯、昨日寝た時間だって影響しているのです。
なぜなら、それによって起きる時間が代わり、朝食、昼食のメニューが代わり……。
「昨日とんかつ食べたから、今日はそばにしよう……」とそば屋に向かった先で事故をしたとしたらどうでしょうか……。
しかしそ考えていくと、さらにその前日にあった出来事、さらにその前日にあった出来事……と、ドミノ倒しのように「原因」を遡っていける事になります。
これではキリがありません。
ですからおしゃかさまは「原因を遡る必要はありませんよ」といっているのです。
占いも、原因のいくつかは解明できるかもしれませんが、おしゃかさまは「人間の能力では、すべての原因を遡ることはできない」とおっしゃっています。
ただ「この世は原因と結果で成り立っている」という法則は忘れないで下さい。
それが「正見」となります。
四諦説
さらに「四諦説を理解する」事も正見といわれています。
四諦説「苦・集・滅・道」の各説明についてはこちら。
苦諦について
集諦について
滅諦について
道諦について
これは先の「この世の全ては苦である」という事を理解して「解脱に向かいたい」と思うことですね。
「四聖諦」で説く所の「苦の原因である煩悩の炎を吹き消して、究極の安らぎの境地である『涅槃』に到りたい」と願うのが「正見」であるというのですね。
このスタートが変わってくると、このあとの努力も目標も全てが変わってきそうです。
おしゃかさまは「四聖諦」を真理であると信じる事が「正見」となるといい、そこから「正しい努力」「正しい精神統一」が始まる、と言っているのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
「正見」は八正道の中で一番大切であるといわれています。
それは「見解が私たちの行動を決めている」からです。
「八正道」は解脱に到る為の道しるべではありますが、私たちが幸せで穏やかな人生を送るための良き指針にもなります。
とくにこの「正見」の教えの中には、悪を避けて善を行い、自分の人生をよりよくしていく為のヒントがたくさんあると思いますので、是非とも参考にしてみて頂きたいと思うのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝