「苦しみの原因とは何だろう?(集諦)」(四聖諦②)後編
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
無明と幸せ。
幸せはどこにある?
おなじ映画を観ても、感動する人としない人がいます。
おなじ料理を食べても「幸せ」と感じる人と感じない人がいます。
それでは「幸せ」って、どこにあるのでしょうか?
高級品を買ったら幸せが多くついてくるのでしょうか?
お金がたくさんあったり、出世をすると幸せになれるのでしょうか?
それでも、貧しくても幸せを感じている人もいれば、お金持ちでも苦しんでいる人もいますよね……。
私たちは幸せを感じたいが故に「何かに執着」する訳ですから「幸せについて知る事」はとても大切な事のように思われますが、ここらへんについてはあやふやなままです……。
幸せは内側にある。
確かに、大好きなケーキを食べたりすると「幸せ」な気持ちになれますよね。
この場合、ケーキに「幸せ」が付属していたのでしょうか?
車を買うときのオプションと同じく「今ならオプションで『幸せ』がついてくる!」という事なのでしょうか?
いや、きっと違いますよね……。
この場合、ケーキは「キッカケ」で「幸せ感は「内側」から溢れてきた」筈です。
外側の「キッカケ」を通じて、内側の幸せがあふれ出てきた訳です。
ここは、とても大切な所だと思うのです。
幸せはどうも「内側」にあるようなのです。
でも、わたしたちが内側にある幸せを感じるには、何か「キッカケ」が必要なのです。
「外部」からの刺激がどうしても必要なのですね……。
「無明」であるわたしたちは、そうでないと「喜び」をなかなか感じられないのようなのです……。
おしゃかさまが言っているのは「我慢」ではありません。
もし「なぜ私たちが人生に苦しみ続けるかというと、物事に執着(渇愛)しているからですよ」と言われるだけだったら、ちょっと苦しいと思うのです。
「そんな事、分かっているよ!」とも言いたくなります。
さらに「その執着を捨てましょう」とまで言われたのなら、そんなしんどい事を言う人とは、もう関わりたくもなくなってしまいます(笑)
どこか違う場所に「簡単に、楽に幸せになれる方法」を教えてくれる人を探しにいくかもしれません。
でもちょっとまって欲しいのです。
ゲームの世界でいくら幸せになっても、それってバーチャルな世界の話ですよね。
同じように、外側にばかり幸せを求めても、幸せがあるのは内側ですから、終わりがないのです。
いつか限界がくるのです……。
先ほどのゲームの喩えでいえば「幸せを感じているのは画面の前の私」という事です。
バーチャルな世界でいくらコインを貯めても、喜んでいたのは結局自分(内側)だったという事ですね。
おしゃかさまは私たちに、今までの前提がひっくり返るような話で「本当の幸せ」について教えようとしてくれているのです。
「幸せを、外側にあるものの中にいくら追い続けても、限界があるんですよ(無明・渇愛)。」
「それよりも、内側の『幸せの源泉』を探す方が、本質的ではないですか?(解脱)」
おしゃかさまは悟りを開かれた時に(いや、そのもっとずっと前の段階で)この理に気づかれていたのでしょうね。
だからこそ、この世界で「キッカケ(欲)」に没頭して、執着して苦しんでいる私たちに「その姿が無明なんですよ。」と教えてくれているのでしょう。
まとめ
如何でしたでしょうか。
先の「苦諦」において、私たちの人生がいかに「苦しみ」に覆われているかを説明したのちに、この「集諦」において、その苦しみの原因が私たちの「渇愛(執着)」にあり、さらに、なぜそのようなループが繰り返されるかと言えば、それは私たちが「事実(真理)を知らない『無明』であるから」というお話でした。
ブッタの教えは「本気で変わりたい!」と思った時にこそ……。
私たちは欲望が大好きです(笑)
でも、苦痛はなるべく避けたい……。
ここで「それでも自分は欲望を追いかけるんだ」という人には、今回の話は必要ないと思うのです。
今回の話も「内側を追い求めた方が早い」とか「内側を追い求める方が確かですよね」とは言わなかったのは、外側の刺激を追い求める方が確かに手っ取り早いし、我々には分かりやすいからです(笑)
しかし「欲望を満たし続けても何かむなしい。でも、何がむなしいのかがよく分からない。なるべくなら、苦しみ少なく生きていきたい」という人には、今回のおしゃかさまの話は、とても参考になると思うのです。
あなたに安らぎが訪れますように……。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝