ブレイクブログ「集諦についての補足話。」

Supplement to the blog explaining the cause
kutei

今回は前回投稿した「集諦」のブログの補足として、本編では書けなかったお話を書かせて頂こうかと思います。

ちなみにこちらが、前回のブログになります。

合わせて読みたい
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ブレイクブログ「集諦についての補足話。」

それでは、よろしくお願い致します。

こんな方に読んで欲しい。
  • 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
  • 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
  • 仏教について、これから学びたいと思っている方。
  • 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。

集諦について

四諦説の中の「集諦」とは

四諦説(したいせつ)とは、おしゃかさまがご自身の「悟りの内容」を、苦の発見から、その解決に到るまでを四つの段階に分けて示したお説教の内容になります。

それぞれ「苦諦(くたい)」「集諦(じゅうたい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」と呼ばれます。

この中でも「苦諦」とは「人生の一切は苦である」という、おしゃかさまの悟りの核心を詳しく説明したもので、さらに「集諦」とは、その苦しみは私たちの「執着から生まれている」といった内容になっています。

この執着の事を「渇愛(かつあい)」といいます。

Like seeking water in the desert
砂漠で水を求めるように……。

砂漠で人が必死に成って水を求めるような……そのような執着の姿の事ですね……。

渇愛について

この世界で生きる事はそれだけでさまざまな苦しみを抱えており、なぜ人々がこうした苦しみを生むかといえば「対象に執着しているから」というのは、言っている事は分かる気はします。

しかし人って、お金も欲しい。服も欲しい。家も欲しい。おいしいものも食べたい……。パートナーが欲しい……。

そんなもんですよね……。

確かに「渇愛」と言われればそうかもしれないですが、だからといって、簡単に執着しているモノを手放す事は出来ません……。

いや、したくもないかもしれない……(笑)。

私も、お坊さんになってすぐの20代の頃は「理解する事さえもしたくない(だってしんどいから……)」といった気持ちでした。

幸いだったのは、日本の仏教教団は「戒律を守れないことには結構寛容」だった事です。

お酒も飲めば、結婚もするし、車もパソコンも買います。

一度僧籍(お坊さんの資格)を取ってしまえば、あとはそれぞれの采配にまかせられますから、うるさく監視する人も最終的にはいなくなります。

「欲望を我慢しようという思いさえ、囚われである、」という説まで聞くことがあります……。

ですから現代では「なぜおしゃかさまは欲望を制御しようとしたのか」についてよく知らなくても、お坊さんをやっていけるのですよね……。

でも、そんな私にも、この「渇愛」について考えさせられる衝撃的な体験が起こったのです……。

修行体験

瞑想の先生から学んでいたこと

私が東京でご縁のあった瞑想の先生は、いわゆる「悟りの境地」に到られた先生でした。

私は、多くの事をこの先生から学びました。

先生は、常に「自分の内側に意識を向けるのだ」と教えてくれました。

その内側にあるものは「まぶしかったり、熱さを感じたり」するそうです。

先生は若い頃に、この「内側にある熱いもの」が自分から外に溢れ出し、宇宙との一体感を感じる境地に到る体験をしたそうです。

インドの聖者さまの本に書かれていること

インドの聖者さまの本にも、同様の事が書かれています。

瞑想の境地「サマーディ(三昧)」に到ると、宇宙との一体感を感じるそうで、私というエゴが完全に消失してしまうそうです。

さらには「毛穴のすべてが生殖器になったような快感」を感じるんだとか……。

それはちょっと経験したくもあります……(笑)

ただ面白いと思ったのは、その結果、男女の性行為に関心がなくなる人がいる、という記述でした。

「我慢しろ」といって性欲が制御されるのではなくて「本物(真理の悦び)をしった結果、かりそめのもの(男女の性欲)の限界を知る」という事のようです……。

私の経験

ある時、私にもその体験の一端が訪れました。

瞑想をしている時、自分の内側から「喜びが溢れてくる」という体験が起こったのです。

An experience that brings happiness from within
幸せが内側から溢れてくる体験

普通、おいしい物を食べた、とか、何かキッカケがあって「喜び」って溢れてくるじゃないですか……。

それが何の因果関係もないまま、唐突に「喜び」が内側から溢れ出てきたのです。

ビックリしました。

と同時に、瞬間的に「喜びは内側にあるのだという事を確信」しました。

外側にあるものはキッカケでしかない。

おいしいものを食べるとしあわせな気持ちになれます。

よい香りを嗅ぐと、気持ちが良いです。

そんな体験を繰り返すと「あのケーキが欲しい」とか「あの香りが好き」と、外部にある物を追い求めるようになりますよね……。

そして手に入らないと分かると苦しくなります。

しかし外部にあるものって、ただの「キッカケ」に過ぎないのです。

なぜなら感じているのは「内側」だからです。

Happiness comes from inside
外界にあるものはキッカケでしかない……。

なくても幸せを感じる事は本当は出来るんです。

でもいわゆる「これを食べたら幸せが沸いてくる」とか「これを嗅ぐと幸せな気持ちになる」という風に私たちは「調教(条件づけ)」されているですよね……。

もちろんそれでも、そのキッカケをくれるモノは私たちにとって貴重なモノではあると思うのですよ……。

でもそれは「永遠に私たちを満足させてくれるものではない」という事です。

どちらを選ぶ?

私が20代の頃、宗教にも造詣の深い、私が師事していた整体の先生から、

「もしあなたに、現金か「お金が確実に儲かり続ける方法」かどちらか一つだけあげる、といったらどちらを選びますか?」

と、聞かれた事がありました。

私はとっさに「現金」と思いました。

なぜなら「金儲け」なんて既にめんどくさそうと思いましたし、「お金が確実に儲かり続ける方法」なんてうさんくさいと思ったからです。

もちろんこれは喩えですけど、それにしても、先生の求めていた答えとはたぶん違いますよね(笑)

今なら言いたいことも、言わせたかった事も分かります(笑)

私たちは、外の刺激を求め続けますが、外の刺激には必ず「限界」があります。

すべてのモノは「無常」ですから壊れていきますし、飽きもします。

なくなったら補給もしなくてはいけません。

飽きたら代わりのモノを探し始め出します。

この営みには、終わりがありません。

しかし喜びって「外側の刺激(モノ)を通じて、内側から溢れてくる」のだとしたら、その「内側の源泉を求める事の方が確実」なのではないでしょうか。

現金は使えばなくなりますが「お金が確実に儲かる方法(源泉)」を知る事の方が確かな事、という話ですよね。

しかし世の人々は「目に見える現金(刺激)」を求め続けます。(無明)

つまりこれは「幸せを追い求めちゃいけない」って話じゃないんです。

外部からの刺激で「内側の源泉から幸せが(井戸水のように)溢れてくる」とするならば、内側の「源泉探し」をした方が本質的じゃないですか?というお話なのです。

私は自身の体験からも、そのように感じています。

ま、私もまだまだ修行中ですから外部の刺激も求めますが、以前より内側に意識が向くようになって苦しみが減ったと感じています。

まとめ

如何でしたでしょうか。

個人的体験

なぜこの瞑想の話を「仏教の話カテゴリー」の中の「集諦」のブログで紹介しなかったか、といえば、これは仏教とか特定の宗教宗派に関係なく、あくまで私の個人的な体験なので、なるべくニュートラルに仏教を紹介したいと思っている「仏教の話カテゴリー」の中で紹介するには躊躇があったからなのです。

「仏教の話のカテゴリー」では、なるべくニュートラルな視点で仏教用語を紹介したいと思っているからなのです。

しかしこの私の体験を紹介したのは、四諦の教えが「苦しみを消滅するためには渇愛をなくすことだ」といったような、ただただ実行が難しい教えという訳ではないという事を知って頂きたかったからです。

ちゃんとそこには納得できるであろう理由がある事を、お伝えしたかったのです。

私たちはあらゆるものに執着し「渇愛」を生みますが、それは「外部のモノが幸せを運んできてくれるからだ」と思っているからではないでしょうか……。

しかし実際、外部のモノは喜びの「キッカケ」を与えてくれているだけで、幸せは「内側」にあります。

この理(ことわり)を知らず、外部の欲(刺激)を追い求めている姿をおしゃかさまは「無明(真実を知らない姿)」と言ったのですね。

本編の「仏教の話カテゴリー」の話と、この補足話である「ブレイクブログ」の内容から、さらに集諦について理解が深まっていただけたとしたら幸いです。

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生きとし生けるものが幸せでありますように。

くてい拝

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まやば くてい
まやば くてい
僧侶・カウンセラー
仏教が取り扱う範囲って結構ひろいです。私はこのサイトを通じて、これから仏教を学ぼう、という方に、まずは広い目で「仏教や、宗教のできた土台」を学んで頂き、そののちに興味の方向にあわせて学びを深めていく事の、お手伝いができたら良いな、と思っているんです。
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