八正道⑤「正命(しょうみょう)」について
今回は、八正道の「正命(しょうみょう)」についてのお話をさせて頂きたいと思います。
要となってきます。
まだお読みでない方は、ぜひ前回の「正見」「正思惟」「正語」「正業」のブログを読んでみて下さいね。
「正見」について
「正思惟」について
「正語」について
「正業」について
仏教が説く「正しい仕事」とは……。
「どのように生きているか」を重視。
多くの人は、望んでいない仕事をしているか、立場上、やむを得ず受け入れざるを得ない仕事をする事に悩んでいるかもしれません。
ですから、ここであまりにも「理想論」的な話をしだしたら、抵抗を感じると思うのです。
しかし、おしゃかさまの観点から「正しい仕事」について論する場合は「どのような仕事に就いているか」よりも、その仕事によって「どのように生きているか」を重視することになります。
なぜなら、仏教においては「悟り」が究極の目標であり、その悟りが、心の平和や安寧の追求と関連しているので、仕事という行為が、心の成長に「どのような影響をあたえているのか」の方が大切であると考えるからです。
例え、今、望まない仕事をしている人であっても、心が清浄であれば、その仕事が心に悪影響を与えないと仏教では教えているようです。
手に傷がないなら、
その手で毒を運ぶことができるだろう。
傷のない者に、毒は及ばない。
悪をなさない者に、悪が及ぶことはない。
(ダンマパダ124)
仏教において、蓮の花は重要なシンボルです。その理由は、泥の中にあって泥に汚されず、美しい花を咲かせることから来ています。
この教えは、仕事がどんな状況にあっても、私たちの内面を汚さないようにすることの重要性を示しています。
我たちは繋がっている。
皆さんは「帝網(たいもう)」をご存じでしょうか。
帝網は、仏法の守護神である帝釈天(たいしゃくてん)の宮殿を美しく飾るために使われる装飾の事で、模したモノがお寺では「仏像や本堂を飾る装飾」としても活用されています。
「帝網」は、その名の通り、網の模様を元にしています。
網の結び目には宝石が縫い込まれており、それらが互いに照らし合わせて、無限に光を反射させて輝いているのです。
このデザインは、私たちの生命が「すべて繋がっている」ことを象徴しています。
私たちの行動や選択が「他の生命にも影響を与えている」ことを示しているのです。
私たちのふとした行動も「世界全体に影響を与えている」というのですね。
そう考えていくと、「正しい仕事」とは何なのか?の答えも、自ずと見えてくるのではないかと思うのです。
正しい仕事とは?
邪命とは
「正しい仕事(正命)」があるという事は「邪な仕事(邪命)」も存在することになります。
仏教が戒める「邪命」は、五つあります。
- 詐欺・欺瞞(クハナー)
- 甘言・虚談 (ラパナー)
- 仄めかし・示相(ネーミッティカター)
- 騙し(ニッペースィカター)
- 利得の貪り求め(ラーベーナ ラーバン ニジギーサナター)
この邪命の注目すべき所は、具体的な「職業名」ではないという事です。
どんなに世間的に立派な職業に就いていても、ここにあるような要素を持ちながら仕事をしているなら、それは「邪命」という事になります。
それでは、それぞれについて説明していきますね。
詐欺・欺瞞(クハナー)
「詐欺」と聞くと、生業としての「詐欺行為」をイメージして「自分にはやっていないから大丈夫」くらいに思ってしまいますが……。ここでは「ないものをあるように振る舞うこと」を言っているそうです。
やる気が無いのに、あるようなフリをして仕事をする……。そして給料をもらう……。
手元に商品がないのに、あるようなフリをして商売をする……。お金だけもらったらトンズラ……。
いくら世間的にりっぱだといわれる職業に就いていたとしても、このような悪心で仕事をしているなら、それは「邪命」ということになります。
甘言・虚談 (ラパナー)
甘い言葉で人を騙す行為をいうそうです。
「結婚詐欺」などがイメージしやすいですね。
褒められて気持ちがよいから、ついついお金をつぎ込んでしまう……。
貼ってある広告を見ると、とても得をしそうだから、ついついお店に入ってしまった。
その結果、正当な「対価」が生まれているのならば問題がないのでしょうが、そこに「人を騙そうとする思い」があるのなら、それは「邪命」となるのです。
仄めかし・示相(ネーミッティカター)
人を不安にさせる行為です。
不安にさせて、救済の道を示し……信者やお客を集める。
宗教や保険、商品の勧誘でよく聞きく話ですよね……。
どんなに売っているモノ、勧誘しているモノが良くても、このような「悪心」で行為しているなら、それは「邪命」になります。
騙し(ニッペースィカター)
「騙し」とは、人々の不安や弱みに「つけこむ行為」の事を指すようです。
人々の不安や弱みに「寄り添う」のか「つけこむ」のか……。
全く真逆の行為ですよね……。
そのような心で行う仕事も「邪命」となります。
利得の貪り求め(ラーベーナ ラーバン ニジギーサナター)
相手に有益であろうとなかろうと、自分の利益だけを追求するような行為を指します。
「自分だけが良ければいい」「儲からないような仕事はしない」といった考え方でしょうか……。
「奉仕」とは真逆の考え方ですね……。
そのような心で行っている仕事は「邪命」となります。
迷惑になる仕事はしない。
このブログの最初の方で私は「おしゃかさまは、どのような仕事に就いているかよりも、その仕事によって「どのように生きているかの方を重視している」と書きましたが、そうはいっても、五つの邪命について考察していけば、自ずと「やるべきではない仕事」についてもみえてきます。
おしゃかさまは「やるべきではない仕事」について四つあげています。
- 毒の製造と売買
- 武器の製造と売買
- 麻薬の製造と売買
- 生き物の売買
「他者に迷惑になるような仕事はしない」「心が(悪感情で)汚れるような仕事はしない」という事ですね。
幸せを感じるのは「心」。
私達の心は弱く、外部からの影響をとても受けやすいです。
高給を得ることができる仕事は魅力的かも知れませんが、それによって心が乱れたり、苦しくなったり、汚れてしまったら「本当の幸せにはなれない」とブッタはいいます。
得たお金でどんなに贅沢をしたとしても、幸せを感じるのは「心」です。
と、いう事は、心が荒んでしまっていたら、「幸せ」自体がどこにも存在しないことになります。
仕事を選ぶ事は「人生そのもの」にとても影響してくるようです……。
まとめ
如何でしたでしょうか。
仏教では「正しい仕事」を実践していく事は、心を成長させるための重要なステップであると考えているのですね。
心の成長を妨げる悪い仕事(邪命)は、なるべくなら避けるべきであり「仕事が心に与える影響を測ることが重要である」とおしゃかさまは考えていたようです。
さらには、私たちは他の生命ともつながっています。
他人に価値を提供する行為が、仕事をした対価を受け取る理由であるとするならば、慈しみやあわれみの心を持って行動することが、本来の「自然の法則に則った姿」と言えるのではないでしょうか。
正しい仕事を追求することは、私達自身の幸せや成長、そして社会全体にも影響を与えていくようです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい 拝