「苦」とは何か?(四聖諦①)前編
今回は、仏教語としての「苦」を説明していきたいと思います。
- 人生における苦しみを「どうにかしたい」と思いだしている方。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
おしゃかさまの説法
はじまりは「苦」から。
前回までのブログでご紹介した通り、
おしゃかさまは「わたしは苦を発見した事によって解脱を得た」とおっしゃっているそうです。
「今まで私は苦ということを知らなかった。今まで知らなかったから苦しんでいた。
すべてのものが苦であると分かった瞬間、こころは完全なる安らぎを体験した。これからこころには微かにでも悩み苦しみは生まれない。
最終的な平安の境地に入った。
やるべきことはやり終えた。なすべきことはなし終えた。
育てるべきものは育て終えた。修行は完成した。こころの解脱は揺らがない。これが最後の生まれであり 、これより再び生まれることはない。生は滅した。これでやることはなくなった。 すべて終わった」
「なぜ苦は偉大なる真理なのか」アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会」
おしゃかさまが世間に対してはじめて行った説法も「苦」という切り口からはじまっている程です。
それほどこの「苦」という概念は、仏教においては重要である、という事なのですね。
最初の説法「四聖諦(ししょうたい)」
仏教における「苦」は、おしゃかさまが生前使っていたパーリ語で「Dukkha(ドゥッカ)」を訳したものです。
おしゃかさまが悟りを開き、最初に説法した内容を「四聖諦(ししょうたい)」といいます。「聖なる四つの真理の教え」という意味になります。
四聖諦とは、
①「苦」Dukkha(ドゥッカ)とは何か?(苦諦:くたい)
②「苦」Dukkha(ドゥッカ)はなぜ起こるのか?(集諦:じゅうたい)
③「苦」Dukkha(ドゥッカ)をなくすとはどういうことか。(滅諦:めったい)
④「苦」Dukkha(ドゥッカ)をなくす為の方法とは何か。(道諦:どうたい)
の四つとなります。
まとめて日本語では「苦集滅道諦(くじゅうめつどうたい)」と呼ばれています。
「苦(ドゥッカ)」とは何か?という説明から、その消滅に到る道を順番に示すことで、おしゃかさまは自身の悟りの内容を説明された、という事ですね。
今回のブログでは、そのなかの「①Dukkha(ドゥッカ)とは何か?」について説明をしていきたいと思います。
「ドゥッカ」とは……。
「ドゥッカ」の言葉の意味
「ドゥッカ」という言葉には「苦」意外にも一般的に「痛み」「悲しみ」「惨めさ」といった意味があり、さらにおしゃかさまがお説法の中で使っている「不完全さ」「無常」「空しさ」「実質のなさ」といったようなニュアンスの言葉も「ドゥッカ」として訳されているそうです。
ちなみに反対語は「スカ」といい、「幸福」や「快適」「安楽」を表します。
普段は単純に「ドゥッカ=苦」と訳されますが、訳語って原典の言葉を知らないと誤解を生む事がありますからね……。
「人生はドゥッカである」と言ったおしゃかさまの言葉のニュアンスを、このいくつかの言葉から想像してみて頂きたく、はじめに紹介致しました。
四苦八苦の中の四苦について。
人生における苦しみを顕した仏教語に「四苦八苦(しくはっく)」があります。
これは「生老病死」という四つの苦しみに、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごおんじょうく)の四つを足したものになります。
それでは順番に、どのような意味なのか、確認していきましょう。
生きる苦しみ
私たちは常に栄養を取り、呼吸をして生きています。
生き続ける為には、繰り返し続けないといけません。
栄養も、取り続けないと生きていけません。
さらに私たちは、常に体勢を立て直しています。じっとしていると苦痛を感じます。
立っていれば座りたくなりますし、座っていると立ちたくなります。
食べるのが苦痛になったから、次に飲み物を飲みます。飲んだその瞬間は癒やされますが、ずっと「飲み続けること」はやはり苦痛になります。
生きる、というのはどうもこの繰り返しのようなのです。
つまりこれは「苦しみを、違う種類のくるしみで誤魔化し続けている」と、いえるのかもしれません……。
かくして「生きること」自体が苦しみ、といえます……。
老いる苦しみ
私たちは常に「老い続けて」います。
赤ちゃんがだんだんとしゃべるようになり、自分の足で立てるようになります。
この事を私たちは「成長」と呼び、喜びます。
しかしこれも「老い」です。私たちは常に「変化」しているのです。
「老い」の苦しみとは「変化」の苦しみです。
新しく買ってきた電化製品でも、新車の部品でも、使えば使うほど「消耗」していきます。
私達が日々「呼吸」し「栄養」をとり続ける限り、体の部品も「消耗」していきます。
私達は生まれると同時に「老い(変化)」という苦しみを背負っている訳です。
病の苦しみ
おしゃかさまは「お腹がすくことも病気である」と言ったそうです。
わたしたちは常に栄養を取らないと死んでしまいますよね。つまり栄養を取らないと「体が維持が出来なくなる」という事です。
ですからこの場合「食べ物」は薬となります。
この「常に手当が必要な状態」をおしゃかさまは「病」である、とおっしゃったそうです。
おしゃかさまは深い瞑想の中で、わたしたちの体が常に「壊れつつあり(老であり病)、それをメンテナンス(食事や呼吸など)し続けている」という事実に気づかれたようです……。
つまり、おしゃかさまがおっしゃった「病の苦しみ」とは「病気になった時だけ苦しい」、というのではなく「私達は常に壊れ続けており、メンテナンスが必要である」という現実に対しての言葉でもあるようです。
さらに「病」には、病自体が引き起こす苦しみと、それによって引き起こされる「精神的な苦痛」もあります。
「死んでしまうんじゃないか」「この苦痛はいつまで続くのだろう」
「後遺症が残るんじゃないか」等。こうした思いのすべてが苦しみになります。
妄想によって苦しみが何倍にも増えてしまう訳です。
かくしてこれが「病」の苦しみとなります。
死の苦しみ
ここまでくると「死の苦しみ」というのも、単に「死の恐怖」というだけではない事が分かってきます。
わたしたちは常に「死につつ」あります。
わたしたちの体は常に「新陳代謝」していますが、それが既に細胞単位での「死」を繰り返している事にもなります……。
さらに私たちは「死にたくない」と考えます。
なぜなら死は「体験した事がない」からです。
死を通じて「今、自分が持っている全てのもの」を失ってしまうような恐怖があります。
死を恐怖する事によって何倍にも「苦しみ」が倍増します。
それもまた「死の苦しみ」ですよね……。
後編に続く……。