八正道⑥「正精進」について(前編)
今回は、八正道の「正精進(しょうしょうじん)」についてのお話をさせて頂きたいと思います。
「正見」「正思惟」「正語」「正業」「正命」のブログをお読みでない方は、ぜひ一緒に読んでみて下さいね。
「正見」について
「正思惟」について
「正語」について
「正業」について
精進(努力)について。
努力という言葉。
「努力」という言葉が苦手な人っていますよね。
努力という言葉を聞くだけで気が重くなる人……。
かく言う、私がそうです(笑)
特に「正精進」という言葉には、私は、とても抵抗を感じていました。
なんだか「とにかく努力しろ、欲望を超えろ!それが正しさだ!」というメッセージに聞こえて、とてもとても、プレッシャーに感じていたのです。
しかし、仏道を探究していく中で、私にもいくつかの「気づき」が生まれていき、その結果「あれ?努力って、決して苦しい事ではないのかも……。」「正しい努力って必要かも……。」と思えるようになってきました。
今回は、そんな気づきを、みなさまにシェアできたらと思うのです。
努力って苦しい事?
私は以前、整体の勉強していたのですが、その先生から「正直者は努力をしない」という比喩話を聞きました。
正直な人は、自分の言っている事が本当であると知っているから、誰にでも「言いたいことは伝わるだろう」と考え「伝える努力を怠る」というのです。
それに対し嘘つきは「相手をいかに騙そうか」と考えるので、その為の勉強をしたりと、とても努力をするというのですね。
これは「自分の言っている事が正しいと思うのなら、なおさら「伝える努力」を怠ってはいけないよ」という例え話でした。
努力=苦労ではない。
当時の私は、「努力・精進」という言葉を聞くだけで、苦しく感じていました。
なぜなら、当時は「努力=苦労」と考えていたからです。
しかし「これから詐欺をして、人を騙そう」という人が、「汗水を垂らして苦労している姿」というのは、ちょっと想像しにくいですよね。
それがしたくないから「人を騙して楽にお金を儲けよう」というのでしょうから……。
しかし、そんな人たちでも「自分が楽に儲けるため」なら、必要なスキルを喜んで学ぶと思うし、詐欺電話をかけまくることも苦痛に感じないと思うのです。
また、趣味に没頭している人や、目標達成のために「寝る間も惜しんで努力している人」も、本人には悲壮感はなく、楽しんでいたりします。
厳しい修行をする人も「その方が目標の自分に近づく」と思うのならば、案外その人は苦しんでいないのかもしれません。
私も修行を「無理矢理やらされている」間はとてもしんどく感じていました。
しかし、「修行を完成した立派な人」に会ったり「本を読んで『なぜ修行が有効なのか』」を自分で納得してからは、目標に向かって精進する時間を苦痛なく過ごせるようになりました。
そう考えると「動機」って大事なんだな、と思います。
決して「努力=苦労」という訳では無いという事ですね。
妄想が膨らませている「苦しみ」
これまで私は、草むしりが大嫌いでした。
なぜなら、むしってもむしっても、また生えてくるし「広いお寺の敷地の全てをやらなきゃいけない……」と、先のことを考えると、それだけで憂鬱になっていたからです。
しかし、ヴィッパサナー瞑想を学ぶようになって「今ここ」という概念を知ってから、心は随分楽になりました。
「ここだけやる」と、今、見える所だけをたんたんとやり続けていたら、いつのまにか仕事が終わっているようになったのです。
あれだけ嫌だった草むしりが……。
以前は、先のことばかり妄想して「目の前の仕事を片付ける前に疲れ果ててしまっていた」ことに気づきました。
しかし、妄想している未来は「今は」存在していません。
「今のコツコツした積み重ねが未来だ」とチョッと気づけたのです。
さらに「今ここ」ということが分かると「急いでも、ゆっくりやっても、それなりに作業には時間がかかるんだな~。」ということが分かってきます。
自分の一時間の「仕事量」が分かってくるということです。
すると、むやみに「全てをこの時間に終わらせなくてはいけない」という焦りもなくなってきました。
さらに、例えば「TVゲームをすることは楽しくて、草むしりはしんどい」と思っていても、「あぁ、手を使った一時間の仕事量としてはそんなに変わらないんだな……」と思うと、「TVゲームは楽しくて、草むしりはしんどい」というのは、私のただの「妄想」であるこという事にも気づいてきました。
そうやって「今だけ、今、目に見えるところだけ……」と集中して草むしりをやっていると、いつもより疲れを感じず、いつのまにか全てが終わってしまいます。
私は、このことから「努力することは苦しい」と、動く前から「妄想で苦しんでいた」ことに気づけたのでした。
私達の行動は反応。
そして、なぜ「精進努力をしなくてはいけないか」という理由も見えてきました。
それは、私たちの行動は「反応」だからです。
この話は、このブログでは何度も出てきていますが……。
ホント、このことに尽きるくらい大切なポイントです。
ここで例え話をします。
道を歩いていたら、走ってきた車に泥をかけられました。 あなたはつい、こう言います。
「バカやろ~!」
道を歩いていたら、ウナギを焼く良い匂いがしてきました。 あまりの香りに、心にあった言葉がつい出てしまいます。
「今晩はウナギにしようかな……。」
さて、ここで質問です。
その言葉を発した時の自分のことを振り返ってみてほしいのですが、その言葉って、本当にあなたの「心からの感想」でしょうか?
いいえ。たぶん冷静に考えてみれば、それほど車に対して「怒って」いなかったり「ウナギじゃなくてもいいんだけどな……」って思えるとおもうんです。
そして、よくよく考えてみるならば、その言葉って、とっさの反応で心に「浮かんで」きていると思うのです。
人はとっさに感情で反応してしまう。
そうなんです。私たちは、自分ですべて考えて行動しているように思いますが、実際は外界の出来事に「反応」して生きているようなのです……。
これ、このままだと「私はなるべく怒りたくない」といくら頭で思っていても、心は「反応」し、自分の意思とは別に「怒って」しまう事になります。
つまり、私たちの行動は「半自動的」に行われている、という事です。
普通に生きていたら、実は「ほとんど自分で選択していないと言えるほど」半自動的に「自分の感情に」動かされて生きている事になります。
これでは「主体的に人生を生きている」とは言えませんよね。
この問題を解決する為には
- 自動的に反応してしまう「心(感情)そのもの」を清らかにする。
- 感情で反応している自分に「気づいて」行動し直す。
と、このような方法しかありません。
つまり、私たちが「自分の感情、妄想に振り回されず、主体的に自分の人生を生きよう」と思うなら、日々の努力(気づき続ける事)が必要となってきます。
この「気づき続ける訓練こそが正精進」なのです。
努力にも「正しい努力」がある、という事。
「正精進」という言葉には「正しい」という要素が含まれています。
つまり、精進(努力)にも「正しい」ものと「正しくない」ものが存在するという事ですね。
ここで、正しくなさそうな努力を三つ挙げてみました。
① 人を騙すための努力
これはもう「正しい努力」とは言えません。時には「その才能、もっと他のことで生かしたらいいのに……」と思うこともあります。
② 目的に達するためには、役に立たない努力
人生において「無駄な努力」はあるとは思いますが、「目的に達するためには必要のない(遠回りになる)努力」というのは存在するでしょうね。
③ 真面目に努力はしているけれど「方向性のズレた」努力
例えば、出世するために一生懸命なお医者さんや学校の先生。仕事を忘れてパチンコの攻略法に熱心なお父さんなどがいます。
これを悪いとは言いませんが「その立場で求められる本来の目的」を忘れて「ズレた目標を追いかけている」というのであれば、それは決して「正しい努力」とはいえなさそうですよね……。
どんな経験も最終的には「人生の糧」となるでしょう。しかし、仏教が説く因果論(物事には原因と結果がある)から考えると、よくない原因を造ることは、よくない結果を生み出すことにもつながります。
ブッタが説く「正精進」の基準に合わせて自分の行動を修正していくことは、より穏やかで苦しみの少ない人生を選ぶコツでもあるようです。
後編に続く……。