苦しみを滅する方法がある「道諦(どうたい)」(四聖諦③)前編
今回は「四聖諦(ししょうたい)」の中の「道諦(どうたい)」についての説明をさせて頂こうと思います。
今回のお話には「苦しみを繰り返す人生からの、根本解決方法」が書かれています。
そんな風に聞くと、内容を知りたいとは思いませんでしょうか?
しかし、ここで一つの問題があるのです。
このあとにも出てきますが、今回のお話は「人生、苦しい事もあるかもしれないけれど、楽しい事もあるよね」と思っている方には、全く響かないお話だと思うのです。
むしろ、途中で読むのがめんどくさくなるかもしれません(笑)
ここにかいてあるような話より、好きな音楽を聴いたり、おいしいものを食べたりした方がよっぽど「即効性のあるしあわせ」を感じさせてくれるだろうからです……。
しかし「そんな一時期のしあわせには限界があるんじゃないかな……」と、思い始めた方には、これからお話する内容はとてもお役に立つと思います。
仏教は決して「エイヤッ!」と「欲しいものを引き寄せる呪文」を唱えて、あなたに、
「どうです⁈幸せになったでしょう?」
と、すすめる教えではありません。
心の構造をよくよく観察して……観察して……。
「根本解決」をするにはどうすればよいかを具体的に示しているのが「本来の仏教の教え」であり、今回の「滅諦(めったい)」の教えとなるのです。
「薬を飲んで今の苦しみを抑える」というよりは「体質改善をして病気にならない体にする」といった違いですかね……。
時間はかかりますが、学ぶ価値はあると思います……。
それでは、話を進めていきます。
よろしくお願いいたします。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
- もう人生で(本気で)苦しみたくない!とおもっている方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
苦しみをなくす方法とは……
四聖諦とは
四聖諦とは、おしゃかさまが悟りにいたる道筋を四つの段階で顕した教えになります。
四つの段階とは、
①「人生は苦しみである」という発見:苦諦
②「苦しみの原因は渇愛(執着)である」という発見:集諦
③「苦しみは滅する事ができる」という結論:滅諦
④「苦しみを克服する為の方法がある」という方法論:道諦
になります。
今回は、特にその中の④「苦しみを克服する方法」についてのお話となります。
おさらい①「苦諦」について。
おしゃかさまは「人生の全ては苦しみ」であると悟りました。
「人生には喜びもあれば苦しみもあるよね」と、いうのではなく「喜びでさえ、その根柢にあるのは苦しみなのだ」と、見極められたのです。
例えば、おいしいもの食べることは(多くの人にとって)幸せですが、どんなにおいしいものもずっと食べていると苦しくなります。
つまり、ここからまずは、おいしいから=しあわせ、という訳ではない事が分かってきます。
と、そこでさらに食べ過ぎて……眠たくなって寝ます。
寝る瞬間は気持ちいいですが、今度は、ずっと寝続けると苦しくなります。
そこで起き上がって歩きます。しかし歩き続けると苦しくなり、今度は座りたくなります。
で、ずっと座り続けると苦しくなるので、また動く……。
このことから「快楽」とは、それまでの苦しみから「変化」があった時の「瞬間的な快感」でしかないのではないのか?という事が分かってきます。
私たちはどうやら、じっとしている事がすでに「苦しみ」のようなのです。
生きているだけで「苦しい」のですね。
「人生の一切は苦しみである(一切皆苦)」という見解は、おしゃかさまの悟りの「最終結論」になります。
くわしくは、「苦」とは何か?(四聖諦①)のブログを読んでみて下さいね。
おさらい②「集諦」について。
そして、なぜ私たちが苦しみを繰り返すかといえば、それは世間のあらゆるモノに対して執着「渇愛(かつあい)の心」を持っているからこそ引き起こされている、というのです。。
例えば、大好きなケーキを食べたりすると「幸せ」な気持ちになれますよね。
この場合、ケーキに「幸せ」が付属していたのでしょうか?
車を買うときのオプションと同じく「今ならオプションで『幸せ』がついてくる!」という事なのでしょうか?
いや、きっと違いますよね……。
この場合、ケーキは「キッカケ」で「幸せ感は「内側」から溢れてきた」筈です。
しかし私たちは「外部のモノが幸せを運んできてくれたのだと錯覚して、外部のモノに執着する」のです。
こうして「渇愛」が生まれるのです。
さらに、私たちは「好きな異性のタイプ」というのを持っています。
同じ目と鼻と耳と口の「組み合わせ」でしかないのに、ある人には「イケメン」「美人」と執着し、共にいる事を渇望し、それが叶わないと苦しんだりします。
同じゴムと鉄の組み合わせが、高級車にもなれば大衆車にもなります。
そしてその違いに私たちは「執着」します。
原材料である鉄やゴムをもらってもうれしくありません。
全ては変化していく……。すべてはいくつかの要素の「組み合わせ」でしかない……。
おしゃかさまは「あなたたちは、そのなかの『ある組み合わせ』には執着し『ある組み合わせ』には嫌悪して、ひとりで苦しんでいるだけなんですよ」と言っているのです。
こうした姿を「真実がみえていない無知な姿」として、おしゃかさまは「無明(むみょう)」であると言いました。
くわしくは「集諦(じゅうたい)」についてのブログがありますので、そちらを読んでみて下さいね。
おさらい③「滅諦」について
そしておしゃかさまは、ご自身の体験から、人がこの無明を打ち破って「真の心の安らぎに到達する事ができる」という事を発見したのでした。
その境地を「涅槃(ねはん)」といいます。「解脱(げだつ)」ともいいます。
どうもおしゃかさまは早い段階で、その当時の修行者達が目指していた「悟りの境地」くらいまでは到達していたようなのです。
しかし、おしゃかさまはその境地には満足していなかったようなのです。
いくら「スゴい超能力」を身につけたとしても「この世のあらゆる事がわかるようになった」としても「苦しみを滅する」事までは出来なかったようなのです。
その能力は別のモノなのですね……。
ここはすごいポイントで、世間には「すごい超能力」を持っている聖者さんもいらっしゃいますし、そうした能力を持って「わたしは悟った」といっている方もいらっしゃいますが、おしゃかさまはそこを「最終到達点とは言わなかった」という事なんです。
そんな事よりも、苦しみをすべて滅して「心が静かで穏やかな境地に到達する事の方が、価値があり、人として、さらに高い境地なのだ」と、おっしゃっている訳なんです。
くわしくは「滅諦(めったい)」についてのブログがありますので、そちらを読んでみて下さいね。
「道諦(どうたい)」とは?
そして続く「道諦」では、おしゃかさまが到達した「涅槃の境地に到達する方法」が説かれます。
それはズバリ「中道(ちゅうどう)」をめざすこと。
「渇愛」によって振り回される心を「中道」の実践によって、常にリセットしていくのですね……。
さらに具体的には「八正道」の実践という事になります。
後編に続く……。