ブレイクブログ「滅諦と道諦の補足話」(前編)
今回は「仏教の話」カテゴリーの中の、「滅諦」と「道諦」の中ではお話できなかった内容を書かせて頂きたいと思います。
仏教の世界でおしゃかさまは「無上正等覚者(むじょうしょうとうがくしゃ)」とよばれています。
これは「この上ない完全な悟りを得た人」という意味です。
その方が「人はなぜ苦しむか?」というテーマに対して「完ぺきに答えた」教えが「四諦説(したいせつ)」になります。
私のブログは「初心者の方にも分かりやすくお伝えしたい」と思って書いていますから、四諦説についても説明が完全ではありませんが、くわしく説明された本など読むと、きっと面白く感じて頂けると思います。(ブログの最後に参考になりそうな本を紹介させていただきますね。)
しかし現実には「私は仏教、好きなんです」なんて人でも、お寺巡りや、願掛けのご祈願、先祖供養、〇〇教の教えには熱心です。……とはいいますが「四諦説は知らない……」「四諦説はあんまり興味ない……」って方の方が多いと思うんです。
私は、みなさんの、元々持っている仏教とのつながりはそのままに、さらに「四諦説」などの初期仏教の教えにも関心を持ってくれたらいいな~、って思ってるんです。
今回のブログでは、私がそう感じるに到ったいきさつをお話させて頂きます……。
それでは、よろしくお願い致します。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- もう人生で(本気で)苦しみたくない!とおもっている方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
滅諦・道諦とは?
四聖諦のおさらい。
おしゃかさまは、深い瞑想の中で「人生の一切は苦しみである(苦諦)」と見極めましました。
そして「その苦しみの原因は執着(渇愛)である(集諦)」とさらに発見しました。
そして、その「苦しみは滅する事ができる」というのが「滅諦(めったい)」の教えでした。
「滅」はサンスクリット語のニルヴァーナの訳で「(煩悩の炎を)吹き消した状態」といったような意味があり「涅槃(ねはん)」とも訳されます。
苦しみの原因である、燃えさかる炎のような煩悩を吹き消せば……。
究極の悟りの境地である「解脱(げだつ)」に至れますよ、というのが「滅諦」の教えです。
そしてその「涅槃」に到る為の具体的な方法を説いたのが「道諦(どうたい)」になります。
基本は、常に「中道(ニュートラル)を保つ」訓練。
ヴィッパサナー瞑想やサマタ瞑想の実践。
具体的には「八正道(はっしょうどう)の実践」となります。
そうした実践によって、私たちは「苦しみの人生」から解放される、というのですね。
歴史的背景。
今回は「仏教の歴史的背景」から、お話を始めさせて頂きたいと思うのです。
仏教はインドで生まれてアジアの各地に伝播していきました。
インドから中国、日本と伝播していったルートを北伝仏教といい「大乗仏教」とも呼ばれています。
インドからタイやスリランカに伝播した仏教を南伝仏教といい「上座仏教」とも呼ばれています。
「大乗仏教」は「民衆の救いの為には、その土地の文化や宗教も大事にしていこう!」といった考えで、伝播していった土地の文化や宗教をどんどん吸収していきました。
その結果「その土地に合った仏教の形」がどんどん生まれていきました。
一方「上座仏教」は「おしゃかさまの教えをなるべく純粋に残していこう」と考えました。
なぜなら「新たに足すモノも、引くモノもない完ぺきな教え」がおしゃかさまの教えだからです。
歴史的に、大乗仏教は上座仏教を「劣った教え」と考え「小乗仏教」と呼んできました。
「小乗仏教は、自分が悟る事ばかりを考えていて、外に出て積極的に民衆を救う事を考えなかった。その反省から生まれたのが大乗仏教運動である」というのです。
それに対して上座仏教は「大乗仏教は本当の仏説ではない」と言い返します。
現在、大乗仏教と上座仏教に大きな対立がある訳ではありませんが、実際にこんな歴史があった、という前提を、まずは知って欲しいのです。
私の探究履歴。
日本は大乗仏教の国です。
私も「大乗仏教」のお寺の修行道場に、高校を卒業してから入山しました。
日本の仏教は「祖師仏教(そしぶっきょう)」と呼ばれたりします。
祖師とよばれる優れたお坊さん達が各宗派をたてて、その宗派独自の「実践方法」があるという「宗派によって特色が出る仏教」です。
その結果、四諦説などのおしゃかさまの教えは「初期の仏教の教え」といったポジションで修行道場でも「サラッと」学ぶ程度となり、それよりはどの宗派も、各宗派の実践(お経を唱えたり、座禅をしたり、題目や念仏、陀羅尼を唱えたりすること)を、所属するお坊さんや信者さん達に教えていくことに力を入れています。
上座仏教の事も「初期仏教を信奉する仏教」というような教え方で「大乗仏教の方が進化している!」という風に教えています。
少なくとも私は、そのように学んできました。
その結果、私の中に上座仏教の事を「小乗仏教」と呼ぶような気持ちこそ生まれませんでしたが「初期仏教がアップデートされたのが大乗仏教というのなら、あえて上座仏教を学ぶ必要は無いな……。」といったような理解が生まれていました。
私は「宗派の教え」を学ぶより、圧倒的におしゃかさまの教えを学ぶ「仏教学」の方が好きでした。
四聖諦などの「初期の仏教の教え」を上座仏教が実践している事は分かっていましたが、それでも「大乗仏教は初期仏教が昇華された教えだから、大乗仏教の教えや宗派の教えを実践して深めていけば、おのずと安らぎに近づく事が出来るだろう。」と感じ「上座仏教も学ばなければ」という必要性を感じる事はないままに過ごしていたのでした……。
信仰とは何かを探る。
大乗仏教には「信仰」という側面があります。
わたしも、お坊さんとして真面目に仏教に向き合おうとすると、信仰は、避けることのできないテーマとなります。
そもそも神や仏はいるのか?
このことを真剣に考えようとすると、どうしても「見えない世界」の事をくわしく知りたくなります。
しかしお坊さんや宗派によっては「そんな事は、私たちには分かりようのない世界なのだから、神仏はいると信じるのみなんですよ。」と、それ以上考えない、といった見解もあるくらいなんです。
このテーマに関しては、私なりにずっと探究を続けてきました。
たとえばこんな感じで……。
こうして私なりに二十年間、探究を続けてきたのですが、ある日、そんな探究を根底からひっくり返すような出会いがあったのです……。
仏教に対する見方が、根底から変わりました……。
後編に続く……。