八正道⑧「正定」について
今回は、八正道の「正定(しょうじょう)」についてのお話をさせて頂きたいと思います。
「正定」とは「正しい集中」といった意味になります。
八正道の他の項目について、他のブログをお読みでない方は、ぜひ、一緒に読んでみて下さいね。
「正見」について
「正思惟」について
「正語」について
「正業」について
「正精進」について
「正念」について
集中力について
モンキーマインド(心猿)
私達の心って、つねに散漫しています。
”今、ここ”にある事に集中するべきなのに、心はいつもあちこちに飛んでいってしまいます。
私達は、ほおっておくと常に注意力が散漫していて、心が「何か一点」に集中できていない状態なのですね。
この状態を仏教ではモンキーマインド「心猿(しんえん)」と呼んでいます。
モンキーマインドとは、猿が枝から枝へとジャンプして移動する様子になぞらえられ、いろんなことが頭に浮かんでは気が散ってしまう状態です。
しかしだからといって仏教では「集中力があればなんでもOK」とは考えていません。
仏教が考える「正しい集中力」と「正しくない(邪な)集中力」というものが存在します。
正しい集中力
正しい集中とは「正しい心構え」が出来ている状態で、一つのことに深く集中している状態を指します。
仏教では、この正しい集中を通じて、真の智慧を得ることができるとしています。
正しい心構えとは、具体的には三心所(さんしんしょ)と呼ばれる心です。
- 智慧
- 施し
- 慈悲
この三つの心で行う集中になります。
例えば、世間的には良いとされている宗教行為をしていても、そこにこの三心所がなければ仏教的には「正しい集中」にはなってはいない、という事ですね。
これは、とても大切なポイントだと思います。
正しくない集中力
仏教が考える「正しくない(邪な)集中力」とは、汚れた心でおこなう集中力です。
具体的には三毒の煩悩(三毒のぼんのう)
- 貪り
- 怒り
- 愚かさ
の心で行っている「集中力」です。
例えば、ギャンブルや詐欺行為をする時だって人は集中力を使っていますよね。
しかし、そんな時、人の心には「もっと儲けたい(貪り)」「あいつ俺より儲けやがって(怒り)」「楽して儲けたい(愚かさ)」が生まれているかもしれません。
そのような集中力では、結果的に心が汚れてしまうので、仏教的には「正しくない」と言っているのです。
正定(正しい集中)の実践。
サマタ瞑想
正しい集中瞑想の事を仏教では「サマタ瞑想」と呼んでいます。
正しい集中を育てるためには、心を落ち着かせ、リラックスし、選んだ対象に注意を集中させなければいけません。
選んだ対象とは、ロウソクの炎だったり、呼吸だったり、お念仏やお題目やご真言をお唱えする事だったり……と、さまざまです。
その中でも、サマタ瞑想を提唱している上座仏教の修行に『慈悲の瞑想』があります。
『慈悲の瞑想』にはさまざまなバリエーションがありますが、ここでは「日本テーラワーダ仏教協会」さんで唱えられているものをご紹介いたしますね。
『慈悲の瞑想』
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
日本テーラワーダ仏教協会
この『慈悲の瞑想』を、唱えている内容をよくよく吟味しながら、瞑想していくのです。
こうして少しずつ慈悲の心を育てていく事で「正しい集中力」も養われていくそうです。
心に三毒(貪り・怒り・愚かさ)が生まれたら……。
瞑想中、心に三毒心が生まれたら、反対の三心所で解毒します。
例えば「慈悲の瞑想」中、誰かに対して怒りが沸いてきたら、あなたにやさしくしてくれた別の人との出来事などを思い出してみるのです。
そうやって心に沸いてきた毒をよいエネルギーで中和します。
人は基本的に、三毒の煩悩が自然に沸いてくるようになっているそうです。
ですから、常に気をつけて、明るい心や、やさしい心でいる「訓練」をしていく事で三心所を育て、結果、集中力も養なわれていくようですよ。
よき指導者を見つける①。
正定(正しい集中)とは、すなわち正しい瞑想状態に到る事です。
瞑想修行って、結構危険です。
不思議な体験をする事だってあります。
しかし、そんな体験には、本当はたいした価値はありません。
でも、ちゃんと指導してくれる人がいないと、何か自分が「特別な存在になってしまった」と勘違いしてしまう事もあります。
それって怖い事ですよね……。
ですから、よい指導者に出会える事は、とても重要な事になります。
よき指導者を見つける②
しかし怖いのは、そんな体験に「あなたは特別な存在だ!」と偽りの価値を植え付け、自分への帰属を求めてくる指導者もいるって所です!
ですから、指導者を「疑う」って事は全く失礼な事じゃなく、とても大切な事だと思います。
その人の行動が三毒の煩悩から生まれているのか、三心所から生まれているのか……。
さらにポイントは、いくら指導者が立派でも、その周りにいる人達まで立派だとは限らない、って事です。
いくら歴史がある宗教団体であったり、名前が通っている団体であっても、所属している人達みんなが「まとも」であるという保証はありません。
団体、となると、どうしてもその(組織としての)存続の為に「他の団体よりもウチは優れてますよ」って指導したくなっちゃうでしょうからね。
その結果、生まれてくるのは、三心所ではなく、三毒の煩悩からの言動になります。
そんな人や団体には指導されたくないですよね……。
よい指導者が近くにいないとしたら、本から学ぶ事も一つの方法です。
私が仏教瞑想に関して参考になったオススメ本
『ブッダの瞑想レッスン: 修行入門一歩前 』アルボムッレ・スマナサーラ著
おわりに
おしゃかさまが目指したもの。
瞑想の境地を「三昧を(ざんまい)」といいます。
正定行であるサマタ瞑想は、人を三昧に導く「集中力」を養う瞑想法であるといえます。
このサマタ瞑想にはさまざまなバリエーションもあり「特殊な呼吸法」などにより、不思議な能力を開発するような方法も存在したりします。
しかしブッタは、そのような境地を「解脱」とは呼びませんでした。
サマタ瞑想では解脱に到る為に必要不可欠な「集中力」を養う事はできますが、それだけでは真の「心の安らぎ」も「人格形成」にも到らないのです。
三昧体験はあるけれど、人格的にはちょっと……って人もいますからね……(笑)
これ、とっても大事なポイントだと、私は思っています。
瞑想の両翼。
ブッタは「心を観察する」ことの重要性を説きました。
それは「正念(ヴィッパサナー瞑想)」として残されています。
そかし、そのヴィッパサナー瞑想も、集中力なくしては成就しません。
瞑想の両翼として、サマタ瞑想(正定)とヴィッパサナー瞑想(正念)を共に行じる事が、おしゃかさまの境地に到る為のポイントでもあるようです。
そして、さらにその境地を深めていくためには、八正道の他の実践の一つ一つが必要となってきます。
八正道の一つ一つの実践は、なかなかハードルが高いかも知れませんが、少しずつでも生活の参考にして頂ければ、きっとみなさまの人生を豊かにしてくれると思うのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい 拝