八正道④「正業」について(2/4)
1/4をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
私達の普段の行動。
思うように生きている?
これは「八正道」の全体を通じて毎回出てくるテーマですが……。
私たちは普段「私は、自分の思うように生きている」と思っています。
しかし、本当に私たちは「自分の思うように」生きているのでしょうか?
行動は自動的……?
私たちの行動は「反応」です。
実は、結構「反応で行動」しています。
例えば、車を運転していたら、脇道から車が飛び出してきました。
すると「危ないな!」と思います。
イラッ、としてクラクションを鳴らします。
また、例えば、ウナギ屋さんの前を通ったら、ウナギの焼ける良い匂いがしてきました。
「今日の晩ご飯はウナギにしようかな……。」と、フと思って行列に並びます。
では、ここで質問なのですが…………。
それって今、あなたが「考えた」事なのでしょうか?
いえ、きっと違うと思うんです。
実際は「とっさにそのように思いついた(浮かんできた)」という方が正しいのではないでしょうか……。
そうなんです。私達は、自分ですべて考えて行動しているように思いますが、実際は外界の出来事に「反応」して生きているようなのです……。
そしてその「反応で生きている事」を私たちは「自分の、自由な発想(意思)で生きている」と思っているようなんですよね……。
内側にあるものに(自動的に)動かされている。
内側に「怒り」がある人はそのような反応を。
内側に「穏やかさ」がある人はそのような反応を。
私達は、ふと沸いてきた感情に「反応して」行動しているだけのようなのです。
そしてまたその行動に対して生まれてきた感情に「自動的に」反応して次の行動が生まれてきているようなのです。
もしこれが本当なら、私達は全く人生を「主体的に生きていない」事になります。
「人生に参加している」とも、とても言えないかもしれません。
反応はドミノ倒しのように。
私達の反応は自動的に起こります。そして起こった「反応」によって第二の反応、第三の反応が(自動的に)生まれてきます。
渋滞に巻き込まれてイライラして……。そしてイライラした感情のままで家に帰ってきて、イライラしたまま家族に向き合うから、ふだんなら怒らないところで怒りが出てきて……。
こうして第三の反応、第四の「反応」が次々に生まれてくる訳です。
恐ろしい事ですが、私達の多くがこのように「無自覚に」生きているというのが実際のようなのです……。
これ、はじめの反応が怒りだったり、悲しみだったりすると、その次の反応、その次の反応、と、結局その人はネガティブな「反応の連鎖」の中で、ただただ生き続ける事になります……。
通常、私たちは「自分は(ある程度)主体的に生きている」と思っていますが、実は「反応の奴隷」となって生きているなんて……もしそれが本当なら、ちょっと怖いことだと思いませんでしょうか……。
なぜ行動に気をつける必要があるのか?
ましてや私たちには「種族保存の欲求という、生命としての本能の欲求」がある為に、どうしても「自分本位な言動をしがち」になります。
無意識に、無意識に、ですよ……。
つまり、無意識に「自分を守る為の……自分本位な……」言動を選びがちだということです。
それって怖いことだと思いませんか?
ほおってくとヤバくないですか?
何をしでかすかわからないですよ?
だからこそ、ちょっと「気をつけて、自分の行動を修正する訓練」が必要になってくるのです。
いわゆる「しつけ」というやつですね。
「しつけ」を自分にほどこすのです。
「しつけ」といわれるとなんだか嫌ですけれど、私たちはそれくらい「気をつけて訓練する時間をつくらないと、ただ流されていきているだけになっちゃう」って事です……。
慣れてくれば、修正された行動が「自動的」になってくれて、ずっと気をつけて生きていなくても、無意識に選ぶ行動が自然と美しくなってくる……という事になります……。
3/5に続く……。