ブッタの「苦」の教え。(後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
苦とは……
苦を発見したことによって……。
おしゃかさまは悟りを開いた時、このようにおっしゃったそうです。
「今まで私は苦ということを知らなかった。今まで知らなかったから苦しんでいた。
すべてのものが苦であると分かった瞬間、こころは完全なる安らぎを体験した。これからこころには微かにでも悩み苦しみは生まれない。
最終的な平安の境地に入った。
やるべきことはやり終えた。なすべきことはなし終えた。
育てるべきものは育て終えた。修行は完成した。こころの解脱は揺らがない。これが最後の生まれであり 、これより再び生まれることはない。生は滅した。これでやることはなくなった。 すべて終わった」
「なぜ苦は偉大なる真理なのか」アルボムッレ・スマナサーラ著 日本テーラワーダ仏教協会」
ここで大事なポイントは、おしゃかさまは、何か特別な能力に目覚めたから悟った、と言ってるのではなく「すべてのものが苦であると知ったことで、私は最終的な悟りに到った」といっている所だと私は思うのです。
でも、楽しい事もある……よね。
私は十九歳の時、はじめて「人生は苦しみである」というおしゃかさまの教えを知りました。
習った当初は「確かにそうだけれども、人生には楽しいこともあるよね」と感じていました。
おいしいものを食べたり、旅行をしたり、欲しいものを買ったりと、人生には楽しいと思える事もありますよね……。
ただ、おいしいものや欲しいものを「知る」からこそ、手に入らないときに「苦しむ」……という視点や、どんなにすばらしいものも「無常」で変化していくものなので、いつかは壊れる……というのも納得できます。
さらには、どんなにすばらしいものも、いくつかのパーツの「組み合わせ」ですから本来「無我(絶対的な形がない)」であり、執着する対象は存在しない……という教えは難しいけれども、苦しみから離れる教えとして納得はできました。
ここらへんについては、また改めてお話させて頂こうと思っているのですが……。
ただ、結局それって
「欲しいという欲望を乗り越えなさい。」
「楽しい事もいつまでも続かないから、欲望を少なくしましょう……」。
という事なのか……と、結局、私の気持ちは救われないままでした……。
しかし、それはどうも違ったようなのです……。
一切は皆「苦」である。
あるときわたしは、スリランカのお坊さんであるアルボムッレ・スマナサーラさんの本を読んで衝撃を受けました。
「苦」に対する、いままで誰も教えてくれなかった見解がそこに載っていたのです。
苦しみがあるから、結婚する。結婚は苦しいから、離婚する。苦しみがあるから、子どもを作る。 子どもが産まれたら、新しい苦しみが出てきて、また悩む。何をやっても、苦からは逃げられません。
生命は何をするものかといえば、「苦を変える」ことをするのです。苦をなくすのではありません。苦をさまざまな苦に変換するのです。
たとえば、一人でごはんを食べるとき、それは「空腹」という苦しみを変えようと思って、食べることにします。しかし、それでも苦しみを変えるのに足りない。それでテレビをつけて、テレビを見ながらごはんを食べたりするのです。
とにかく、人は生きる上で、苦しみをいろいろな方向に変えています。人間がやっている一切の生きるための行為は、感覚がやらせているのです。人間だけではありません。すべての生物がやっている一切の行為は、感覚がやらせているのです。この感覚が、苦(dukkha) なのです。
生きている細胞を一個、顕微鏡で見てください。 アメーバみたいに、ぐにゃぐにゃ、ぐにゃぐにゃ動いています。もしも動かなかったら、ものすごい苦しみで死にます。(中略)座っていると苦しくなってくる。それで立つ。立っていると苦しくなってくる。 そうすると歩く。歩くと苦しくなってくる。そうするとまた止まる。止まっていると苦しくなってくる。また座る……….。そうやって、永遠に、我々は苦を変えていきます。
生きることはただ、それだけです。ほかには何もないのです。苦しみがなければ、勉
強もしません。「苦の見方」アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版 p110~p113
「生命は何ぞや」「生きることは何ぞや」 「神様はいるのか」「死んだら私は天国に行くのか」などという悩みがあるでしょう? あれも、苦しみがあるからです。
私たちは呼吸をします。試しに数分間、息を止めてみてください。
とても苦しくなります。息は吸い続けていないと苦しいですよね……。
さらに私たちは、常に体勢を立て直しています。じっとしているのが苦痛なのです。
立っていれば座りたくなりますし、座っていると立ちたくなります。
おいしい料理も、実際においしいのは最初の数口じゃないでしょうか。そのあと食べるのはだんだんと苦痛になっていきます。
食べるのが苦痛になったから、今度は飲み物を飲みます。
飲んだその瞬間は癒やされますが、ずっと「飲み続けること」はやはり苦痛になります。
どうも私たちは「苦しみを、違う種類のくるしみで誤魔化しているだけ」のようなのです。
瞬間的な「快楽」で誤魔化されていますが、それを繰り返しているお陰で正気を保っているようなもの、だというのですね……。
生きている事自体が根本的に「苦」である、というのは、こういう理由からなのだ、というのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
どうも私達は「生きている事の全てが苦」であるようなのですね……。
すべての行為に私達は実は苦しみを感じていて「すでにある苦しみを違う苦しみで誤魔化しているだけ……」なんて、気づいた事もありませんでしたが、言われてみれば……私はとても納得できました……。
三大欲求に対する考え方も、少し変わってくるのではないでしょうか……。
この「苦」という真理におしゃかさまは深い瞑想によって気づき、結果「苦の消滅」にまで到り、悟りを得たようなのです。
私達は何をやっていても、いつになってもこの「苦」から逃れられていません。
そう考えると、この「苦」について解決を求める事は、なによりも人生において急務な事なのではないでしょうか……。
今回の私のブログではくわしくすべてを説明していませんが、おしゃかさまはこの苦について、ちゃんとくわしく解説してくれています。
呪文でエイッ!とかではなく、論理的な、教えを、です。
これから紡いでいくブログや、紹介させて頂いている本もよかったら参考にして頂き、みなさんもぜひおしゃかさまが一番に探究したこの「苦」についての智慧をご自身の人生に役立てて頂けたらと思うのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
合掌 くてい 拝
オススメ参考文献 「苦の見方」アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版