八正道④「正業」について(1/4)
今回は、八正道の「正業(しょうごう)」についてのお話をさせて頂きたいと思います。
まだお読みでない方は、ぜひ前回の「正見」「正思惟」「正語」のブログを読んでみて下さいね。
「正見」について
「正思惟」について
「正語」について
私たちの(普段の)行動……。
仏教が説く「正しい行い」についてのお話する前に、まずは私たちの「普段の行動」がどんな状態であるのかを検証していきましょう。
結構、自分ファースト。
私たちは基本的に「自分が大切」です。
そりゃ~そうですよね。
私にとって、私より大切なものはない。
仏典にこんなエピソードがあります。
或るときパセーナディ王は、マツリカー妃とともに美麗絶なる宮殿の上にいたことがある。 インドの宮殿は屋上が平らで歩んだり休息したり昼寝までできるようになっているので、妃とともに風光を楽しんでいたのであろう。そのとき王妃に尋ねた。
「原始仏教」中村元著 NHKブックス p85
『マツリカーよ。お前にとって自分よりももっと愛しいものが何かあるかね。』
王は或る答えを予期していたのであろう。 甘い答えを――。ところが妃ははぐらかしてしまった、
『大王さまよ。わたしにとっては自分よりももっと愛しいものは何もありません。』
最愛の人々の間でさえもこうなのである。人間の実存のとぐろなす坩堝が露呈している。 妃はさらに反問した。
『大王さまよ。あなたにとっても自分よりもっと愛しいものがありますか。』
『マツリカーよ。わたしにとっても、自分よりももっと愛しいものは何も無い。』
この時、王様はお妃様に「だれよりあなたの事を愛している」と言って欲しかったのでしょうね。
しかし期待に反してお妃様は「いいえ、私にとって、私より大切な存在は見つかりません」といい返します。
その言葉にちょっとショックを受けている王様に対して、お妃様は聞き返します。
「それでは、王様にとって自分より愛しい存在はありますか?」と。
王様もよくよく考えてみれば「私にとっても、私より大切な存在は見つからない」と感じ、そのように正直に答えます。
傷心だったかもしれませんが、王様……。素直によく考えましたね……(笑)
私の知り合いの男性が、奥さんに「あなたがもっと穏やかな人だったら、あなたをもっと愛せたのに……。」と言ったそうです。
すると奥さんは「条件付きじゃないと愛せないなんて、本当の愛じゃない。あなたには愛がない」とヒステリックに怒鳴ったそうです。
それを聞いた私が思ったのは「奥さんもまた『条件付きの愛を持っている人はダメ』という「条件」をもっているんだナ……。」という事でした(笑)
人はどこまでいっても「自分ポジション」からしか物事が見えないんでしょうね……。
(きっと私も普段、ポジショントークになっていると思うので……)私も、自分の事として反省します……。
種族保存の欲求。
私たちは「人々の為に尽くせる人」と「自分の利益ばかりを追求する人」を比べたときに「人々の為に尽くせる人」の方を賞賛するのではないでしょうか。
実際、そんな二人の人間がいたら「人々の為に尽くせる人」の方とお付き合いをしたいですよね(笑)
しかし、整体の大家である野口晴哉(1911年~1976年)に言わせれば、善悪は別として、この二人は「欲求の上では両者は同一であり、命としての表現が違うだけだ」というのです。
それは「種族保存の欲求」です。
徹底的に追いつめてゆけば、人間の一切の行為は種子を播くことと食べることの為に行
われていることが判る。 花と団子の世界といってよい。しかも一切の圧縮エネルギーのもとは性の抑圧である。種族保存の要求の前では団子はどこ迄も団子で花ではない。
自己保存の本能も種族保存の大きな要求から見ればその手段に他ならぬということである。この点では団子より花の世界といえる。自分の生命さえその為には捨てるのである。そこに生命の延長発展がある。だからその一瞬に身を殺す蜂や蟷螂を笑うことは出来ない。生物の一切がその目的を自覚するしないに拘わらず、そういう行動をとるのである。蝉が鳴き続けるのも、草木の花が開くのも、ホーホケキョーという声も自己主張であり、種族保存の歌なのである。
大言壮語にしても、華やかな化粧にしても、我ここにありと主張する花の色香である。その為に命を賭けているのである。人間が見栄を張り、気取ることも又本来の性の発露であって、それを悪いとすることは間違っている。
なけなしの身銭を切って高い珈琲を奢っても不思議なことではないのである。人間の利害得失といっても毀誉褒貶といっても、この裏打ちがなければ煙のようなものだ。 華やかに開く花の前では空しい存在である。『人間の探究』野口晴哉著 全生社 p13~p14
身を殺して闘うのも、我身を大切にして養生一途に過すのも、結局は同じ要求の為に他
ならない。ただその現われ方が異なるというだけである。而もここで問題となるのはその現われ方である。
「人々の為に尽くせる人」は「人の為に尽くすことで安心して自分の『種』を残せる場所を作ろうとする」し、「自分の利益ばかりを追求する人」は「自分の利益を追求することで、自分が生きやすい場所を作り『種』を残そうとしている」というのですね。
私は、それまで、そんな風に物事を捉えた事がなかったのではじめてこの本を読んだ時にはビックリしました。
そして、この本を読んだことで「すこし困った人」の事も許せる気持ちになれました。
少なくとも私たちが「無意識に、自分を守り、子孫(種)を残す為の行為を選んでしまう」というのは納得できますよね……。
2/4に続く……。