八正道②「正思惟」について
今回は、八正道の中の「正思惟(しょうしゆい)」についてお話させて頂きたいと思います。
正しく思惟(思考)する。
私たちにとって「何を考えるか(思考)」って結構大切です。
私たちはこの「思考」に苦しめられている、といってもいいくらいではないでしょうか。
思考の大切さ。
例えば、今、あなたは、公園のベンチに座っているとします。
心地のよい風が吹き、とても静かな時間です。
しかし、そんな時、あなたの頭に浮かんでくる事は借金の事だったり、嫌みな上司の事だったり、関係が上手くいっていない恋人の事だったりします。
苦しい思考が、次なる「苦しい思考」を呼び……「もうすべてが嫌になってしまう」ような気分です……。
まるでドミノ倒しのように、悪い思考が、悪い思考を想起させていきます。
本当はただベンチに座っているだけなのに……。
心地よい風を感じる事もできるのに……。
思考によって行動も変わる。
思考が私たちを幸せにもすれば不幸にもします。
思考によって「行動」も変わってきます。
私たちは多くの場合「自分を不幸に陥れていく思考のパターン」に、自ら陥っている、といえるのではないでしょうか。
おしゃかさまは、私たちがこうした思考の負ループから離れ、心静かに生きていく為の方法を「八正道」として説きました。
その中の正しい思考方法が「正思惟」なのです。
邪思惟について
「正思惟」がある、という事は「邪(よこしま)な思惟」も存在します。
まずはこの「邪思惟」が「邪な思考である」と理解する事が「正しい思惟」の始まりなんだそうです。
ちなみに邪思惟とは、
- 欲
- 怒り
- 害意(がいい)
となります。
まずはこのそれぞれについて、みてみましょう。
欲
「欲」から生まれる思考は「邪思惟」となります。
仏教では、眼、耳、鼻、舌、身という「体の五つの器官」から得られる刺激に執著することを「五欲」といいます。
好ましいモノを観たい、聞きたい、嗅ぎたい、飲食したい、触れたいという欲求はだれにでもありますよね。
こうした欲求が、社会や科学の発展に貢献してきたという側面はあるのでしょうが、欲心が過剰になる事によって、冷静な判断ができなくなる事も事実だと思います。
真の心のやすらぎをめざす「解脱」という視点からすれば、「欲」から生まれる思考は、苦しみや争いを生む「邪思惟」となります。
怒り
怒りから生まれる思考も「邪思惟」となります。
不満などの感情も「怒り」に含まれます。
怒りの感情があると、冷静な判断ができません。
自分と他者とを苦しめていくことになります。
「真の心の安らぎ」である「解脱」に到る為には、「怒り」は手放していくべき感情であるといえます。
害意
害意と怒り、って似ているような気がしますが、怒りがなくても「害意」は発生します。
「害意」とは、他者を傷つけてしまっても平気な感情をいいます。
例えば、youtuberさんが、お店のモノを粗末に扱って炎上している動画とかってありますよね……。
あれはお店に対して「怒って」やっている訳ではなく「視聴者を増やしたい」とかいう個人の欲求のためにやっている行為ですよね……。
それは「害意」といえます。
また、誰かがあなたの言った意見に対して反論したとします。
そして今度はあなたが相手を「言い負かそう」としたとします。
この場合「言い負かそう」とした心は「害意」といえます。
「真の心の安らぎ」である「解脱」に到ろうとしたとき、このような「害意」が私たちを苦しめている、というのです。
正思惟とは……。
では「邪思惟」に対して「真の心の安らぎ」に到る、正しい思惟とはどのようなものか、といえば、正見である「苦・無常・無我」「因果」「四聖諦」といった「正しい見方」をベースとして「欲・怒り・害意」といった悪感情を
- 施し
- 慈しみ
- あわれみ
といった思考に、変えていく事なのだそうです。
それでは、そのそれぞれを見ていきましょう。
施し
「施し」とはつまり「手放していくこと」だそうです。
例えば、金銭や物を、困っている人に寄付する事は「施し」かもしれませんが「私がこれだけの事をした」と思っている内は「手放した」とはいえませんよね……。
この場合、やっている事は「施し」なのに、心は「欲」となります。
「欲」は「私が、私が……」という感情が前提で生まれます。
ですから、金銭に困っている人に寄付をしたとしても「オレが寄付してやったのに感謝しないなんて……」と思っていたら、沸いてくるのは「怒り」の感情となってしまいます。
つまり「施し」のポイントは。「私が、私が……」という感情を「手放す」という事になります。
ただ、それって難しい事だとは思うんですよ。
どうしても私たちは「見返り」を求めてしまいますしね……。
しかし、だからこそここでブッタの「正見」の教えを参考に「施し」の心を育ててみてほしいのです。
- (例)手にした物は、いつか「苦しみ」にかわる。(苦)
- (例)今、手にしている「お金」も、使ってしまえば「誰かの所有物」。
全ては常に変化していくので「私のモノ」という概念は本当は通用しな い。(無常・無我)
仏教では本来「私、という感覚は五感によって造られたマボロシで存在しない」と説きます。(無我)
つまり、そもそも「私」がないのですから「私のモノ」なんて存在するはずがないのです。
ちょっと理解しがたい話ですけれど……。
しかし少なくとも「私が、私が」という感情が「対立や苦しみ」を生んでいるのは間違いがなさそうです。
苦・無常。無我、といった教えを参考に、どうしても自己中心的になる「欲」の心を「施し」に変えてみてください。
きっと、大きな安らぎの体験ができる事と思います。
慈しみ
「慈しみ」とは、あらゆる命に対して「寄り添う心」を持ちなさい、という事ですね。
原語のパーリー語では「メッター」といい「友情」とも訳されます。
「怒り」の心を「慈しみ」の心に変えていくのですね。
そうは言っても、寄り添う気持ちにはなれない人もいるかもしれません。
しかしここでもまた「正見」の教えを参考に「慈しみ」の心を育ててみてほしいのです。
- (例)私も苦しんでいるように、誰もが苦しんでいる。(苦)
- (例)私にも正しさがあるように、他の人々にも正しさがある。(無常・無我)
- (例)私も完ぺきではないし、この人も完ぺきではない。
同じ苦しむ存在である。(苦) - (例)私も彼と同じ立場なら、同じ判断をしていたかも知れない(因果)
こうして人を「許す」事ができたとしたら、生きる事はとても楽になっていくと思うのです。
あわれみ
あわれみとは「他者の痛みを自分の痛みのように感じる」心の事です。
困っている人がいたら「助けてあげたい」と、思う心の事です。
私たちは結構、困っている人が目の前にいたら、ほおってはいられなくなりますよね。
人には元来、そのような心が備わっているようです。
テレビやネットでも困っている人、貧困の国で苦しんでいる人を観たら
「この人が幸せでありますように」
「この人の問題が解決しますように」
と、ぜひ祈ってあげて下さい。
それがこの「あわれみ」の「正思惟の心」を育てるキッカケとなります。
まとめ
如何でしたでしょうか。
私たちは自分の「思い」によって行動を決めています。
何より恐ろしいのは、そうした思考は心に自然に「浮かんで」くるものだという事です。
そして、浮かんできた思考に対して私たちは「行動」を決めています。
つまり、自然に浮かんできた思考がネガテイブ(邪思惟)なものであればそれに準じた行為が。浮かんできた思考がポジティブならば、それに準じた行為が「自然に生まれていく」という事です。
ゆえに「思考」を普段から正しくしていく事は、自分自身の人生をよりよくしていく事にも繋がっていきます。
ブッタが教える、心安らかに生きる為の「正思惟」の教えを、みなさんの普段の生活にも生かして頂けたら、と思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
合掌 くてい 拝