仏教の話

八正道①「正見」について(前編)

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八正道とは

誰にでも役に立つ。

八正道とは、おしゃかさまの悟りの境地である「涅槃」にいたる「八つの実践」を説明した教えです。

「涅槃」とは一切の苦しみから離れた「心がとても静寂な境地」の事をいいます。

complete end of suffering
苦しみの完全な終わりが涅槃です。

「涅槃に到る為の方法」なんて聞くと「私には関係ない話だな……」と思う方が大半であろうとは思いますが、私たちが日々受ける苦しみを少しでも減らして、心静かに生きる為のヒントがたくさんありますので、ぜひ参考にして頂けたらと思うのです。

八つで一つ

八正道は「八つで一つ」です。

「八つのうち、どれか一つだけ実践すれば悟りに到る」という訳ではありません。

The eight practices are connected
八正道は、すべてが成長のためにつながっています。

本当は分かちがたく、一つに連動している実践なのです。

これは「健康で長生きするためにはどうしたらいいか」という喩えが分かりやすいと思います。

通常、我々人間が健康でいるためには何に気をつけなければいけないでしょうか?

一般的には「食事」「適度な運動」「睡眠」などが考えられますね。

さらには「生活環境」「人間関係」「思考」なども大切でしょう。

「食事」も、なんでも食べればいいという訳ではありませんよね。「正しい食事」という基準がありそうです。

「人間関係」がストレスだと健康にも影響が出るでしょうし、ネガティブな「思考」だと寿命を縮めてしまうかもしれません。

それに、食事だけ健康なモノを食べていても、体を適度に動かしていなかったり、生活環境が悪いと長生きはできないかもしれませんよね。

これが「(八正道は)すべてが連動している」という話の例えになります。

完ぺきに説明してくれているおしゃかさま。

そして、本当に健康に生きている人に「あなたの健康に秘訣について説明して!」と質問しても、その人にとっては当たり前すぎて「説明できない、説明しきれない……」なんて事があったりするのではないでしょうか。

「八正道」に関しても同様です。

おしゃかさまのような、完成された悟りを得た人からすれば、こうした実践は「当たり前」で、本来は自然に実践されていた事だったと思います。

おしゃかさまは「人類最高の智慧」を会得された方です。

You have explained things clearly for us.
最高の智慧を持ったおしゃかさまが、私たちのために分かりやすく説明をしてくれています。

そのおしゃかさまが「人類最高の智慧」によって、あえて八つの方向から漏れなく修行が完成するように説明してくれているのが「八正道」の教えなのです。

八正道とは

それではここで、八正道のそれぞれについて簡単に説明していきましょう。

  • 正見(しょうけん):正しい物事の見方
  • 正思惟(しょうしゆい):正しい考え方
  • 正語(しょうご):正しい言葉
  • 正業(しょうごう):正しい行い
  • 正命(しょうみょう):正しい生活
  • 正精進(しょうしょうじん):正しい努力
  • 正念(しょうねん):正しい注意
  • 正定(しょうじょう):正しい精神統一
The eight practices are connected
八正道は、すべてが成長のためにつながっています。

この八つになります。

「正しい」とついている、という事は、それぞれに「邪(よこしま)な」道もある、という事になりますね。

例えば、お酒を断ちたいのに、飲み屋街を歩くのは危険です。

なるべく誘惑の少ない場所にいる事が「正しい」判断なのではないでしょうか。

その場合、飲み屋街を歩くのはむしろ「邪な」判断になりそうです……。

詐欺が「どうやったら人を騙して儲けられるだろう」と努力する事は「正しい努力」とはいえません。

私たちが「苦しみを滅して悟りを得る」という目標に向かって、生活のあらゆる側面で「一番正しい選択」を厳選してくれているのが八正道の各項目となっているのです。

そう思って観て頂けると、さらに理解を深めてい頂けると思うのです。

八正道は、義務でも命令でもない。

八正道は、義務でも命令でもありません。

not obligatory
おしゃかさまの教えはいつも義務ではありません。

おしゃかさまはいつも強制はされていないのです。

宗教によっては「決まりを守らなければ天国にはいけない」と教えますが、おしゃかさまは冷静に状況を分析して「こうしたほうがよいのではないですか?」と私たちに提案してくれているのです。

今回の八正道も「苦しみが続く人生から脱却する為には、生活の全体をこのように改善していくと良いですよ」と、アドバイスをくださっているのです。

それでは今回は、八正道の中の「正見」の紹介をさせて頂きます。

正見とは……。

すべてに繋がってくる正見。

「正見」とは「正しい見方」という意味です。

物事の見方が正しくなければ、すべての行動がいつのまにか「邪な」方向に向かってしまいます。

例えば「人を殺してでも、信仰を貫いたものだけが救われる」なんて教義がある宗教は、果たして「正しい見方」をしているといえるのでしょうか……。

しかし、そんな宗教でも「没頭」してしまう人は存在します。

そんな宗教を信じて一生懸命修行をしていたとしても、それは果たして「正しい努力」をしているといえるのか……。

そのような教えの先に、本当に安らぎは存在するのでしょうか……。

又、お金を稼ぎたいと思うことは、悪いことではありませんよね。

しかし「人を騙してでも儲けてやろう」と考えたとしたら、それは「正しい努力」でも「正しい見解」なさそうです……。

そういう訳で「正見(正しい見解)」とは、八正道の全ての項目の要(かなめ)となってくる、とても大切な項目なのです。

Having the right opinion takes precedence over everything else.
正しい見解を持つことがとても大切です。

それでは仏教的に「正しい見方」とは何か?を具体的にいいますと「苦・無常・無我」「因果」「四聖諦」を正しく理解する事となります。

これから、そのそれぞれを観ていきましょう。

「苦」については「四聖諦」の項目で説明してきました。

「苦」についての「正しい見方」とは「人生のすべては『苦』である、という事を理解する」ことになります。

everything in life is suffering
人生の全ては苦しみです。

でも普通似考えたら……「人生は確かに苦しいかもしれないけれど、楽しい事もあるよね……」と思うじゃないですか……。

There are some fun things in life...
人生、楽しい事もあるよね……。

しかしその見方は「邪見(じゃけん)」となります。

私たちは常に「苦しみ」を感じています。

ためしに息を止めてみて下さい。すぐに苦しくなります。

だからといって息を吸い続けても苦しくなります。

寝ているのは幸せでしょうか?しかし寝続けていると苦しくなります。

だからといって座り続けると苦しくなります。だから歩きだします。

しかし歩き続けるとまた苦しくなります。だからまた座ります……。

おいしい物も食べ続けると苦しくなる。だから何かを飲む。

しかし飲み続けると苦しくなる。だから食べるのを止める。

でもしばらくするとまた食べたくなる……。

こうして「観察」していくと、我々の「楽しみ」とは、苦から新しい苦に変わる瞬間の「刺激」の事を指している事が分かってきます。

生きる事は苦しみである。

「刺激」でしかないので、この「幸福」は長くは続きません。

しかし、普段の私たちはこうした事を「喜び」として過ごしています。

こんな中で「刺激」を求めて、ただただ生き続けているのです……。

喩えれば養殖の魚がいけすの中で、決まった時間にエサを与えられて満足して生きているようなものかもしれません。「これが世界だ」と。

しかし本当はもっと自由に泳げて自由に食事が出来る「大海原」があります。

同じように我々人間も「刺激が喜びの人生を、当たり前だと思っている」のです。

We only know life where stimulation is pleasure
今までそんな価値観しか学んでこなかったって事はないでしょうか……。


しかし、そのままだと私たちは、この「刺激で誤魔化すループ」から抜け出れないままになってしまいます。

これが仏教的には「邪見」となるのです……。

おしゃかさまは「四聖諦」の中で「苦しみの原因は渇愛(執着)である」といっています。

仏教は、むやみに「執着を捨てて清らかに生きなさい」といっている訳ではないんです。

「私たちが執着している対象は、私たちに瞬間的な「刺激」を与えてくれているだけで、わたしたちの苦しみの「根本解決」を与えてくれるモノではないんですよ。」

「生きているだけで苦しい我々が『かりそめの喜び』をそこから得ているだけなんですよ」

と教えてくれているのです。

これが仏教的な「正見」となります。

これは暗い話でもなければ、「すぐにそのように考えなさい」という話でもないんです。

しかし「刺激に酔っている人生」「人生を苦と見る人生」では、その後の展開が全く違って来るであろう事は、ここまでの話で感じて頂けると思うのです……。

What kind of opinion you have will change your life after that
どのような見解を持つかで、その後の人生が変わってくる。

だからこそ「正見」が八正道の一番根本となってくる訳です。

もし、あなたが少しでも「この日々の苦しい人生を克服したい」と思われるなら「人生は苦しみである」という所から観察してみてください。

何か却って心が安らぐ新しい発見、気づきがあるかもしれませんよ。

さらにくわしく「苦」について知りたい方は、「苦」のブログを読んでみて下さいね。

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八正道①「正見」について(前編)
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無常

おしゃかさまは「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といって「この世にあるものはすべて変化していく」といいました。

There is nothing in this world that does not change.
この世に「変わらないモノ」は一つもありません。

日本人は儚く散っていく草花を観て「無常だな~」といったりします。

しかしこれはそういった「情緒」の話ではありません。

「この世にあるものはすべて変化していく」という話なのです。

「この世にあるものはすべて変化していく」と観察するのが「正見」なのです。

しかし私たちは、モノが壊れると驚きます。

それは、どこかで「壊れない」と感じているからです。

人間関係が壊れると驚きます。

それは、どこかで「壊れない」と思っているからです。

同様に、健康が……、老いが……、死が……。

私たちは驚き、悲しみます。

そこには「怒りの感情もわいている」とブッタはいいます。

しかしそれは「邪見」なのです。

「この世にあるものに永遠を感じている」というのは「邪見」になります。

All things change for better or worse
すべてのモノは、良くも悪くも変化していきます……。

よくよく観察してみますと、自分自身の心や体でさえも日々変化していくのですから、他者や自然、モノや人間関係が「常に変化」していく事は当たり前のことではないでしょうか……。

これは例えば「親子の愛」がある日突然なくなる、という話ではないんですよ。

親子の愛の形だって、日々変化していっているのではないでしょうか。

もっと言えば、瞬間瞬間に、喜んだり、怒ったり、悲しんだり……していますよね……。

そう考えると「人との関係性」も同じようで……常に一定ではないことが分かってきます。

これは「悲しい話」でも「むなしい話」でもありません。

それがこの世にある一切のモノの「普通の状態」なのです。

そう観察することが「正見」になります。

「永遠の愛」があるのではなく、愛し合う人々には「愛を永遠にしていきたいというお互いへの気遣いと努力」があるのではないでしょうか……。

しかし、人は、自分の変化も受け入れられなければ、自分以外の変化も受け入れられない。

そして悩み、苦しみ、怒る……。

それは、よくよくかんがえてみれば、とっても「不自然」で「わがまま」な事だとも言えます。

これが仏教的には「邪見」となるのです。

私も、大切にしているモノが壊れたら驚きますしショックを受けます。

I don't think it will break
壊れるはずがないと思っちゃうよね……。

しかしよくよく観察してみたら「壊れないと思っていた根拠はどこにもない」ことが分かってきます。

自分だって日々「変化して」いきます。もっと言えば「瞬間的に」変化していっています。

そう気づいたとき「あぁ、最初から、全てのモノは常に変化して当たり前なのだ」と思えるようになるのではないでしょうか……。

「手にしたモノすべて永遠である」と感じて生きるのと「すべてのモノは変化していく」と見極めていきていくのではずいぶん生き方のスタートが違ってくるように思います。

If you think that it is such a thing, the upset will disappear
そんなモノだと思えば、動揺は少なくなります……。

「変化」をうけいれられたら、生きるのは随分楽になりそうですね。

これが「正見」になります。

無我

それでは、なぜ「すべてのモノは変化していく」のでしょうか。

それは「すべてのものに実体がない」からです。

例えば、ここに「ガラスの器」があるとします。

glass vessel
名も無いガラスの器……。

この器にお茶をいれたら、コップとしてつかえます。

タバコの灰を入れたら「灰皿」になります。

花を生けたら「花びん」になります。

ガラスの器に最初は、特定の「意味」はありませんでした。

これは、ある「条件」を与える事によって、ある「意味」をもつようになった、という事なのです。

Given a condition, it has a property
ただのガラスの器が、意味を持つ……。

これが「すべてのものには実体がない(無我)」という事になります。

このように「すべてのものには決まった形がない」と観察する事が「正見」となります。

この例えでいえば「大切な花びんを割ってしまった……」などと「たまたま与えられた花びんという性質」に固着してしまうのは「邪見」となります。

違う例えを話します。

缶詰は、缶とシーチキンの組み合わせです。

中身がコーヒーになれば「缶コーヒー」になります。

つまり、シーチキン缶や缶コーヒーは単体では「存在していない」とい事になります……。

車は、鉄とゴムの組み合わせ。

テレビも、たくさんの部品が組み合わさっています。

部品単体でもらってもうれしくありませんよね(笑)。

同じように人間も、たくさんの部品が「組み合わさって」生きています。

さてここで質問なんですが、あなたの「主体」ってどこにあるんでしょうか?

脳?心臓?

しかしどちらも「単体」では存在することができません。

脳だけあっても「あなた」ではないですし、心臓だけあっても「あなた」じゃないですよね……。

いろんなものが「組み合わさって」あなたが構成されています。

「あいつはオレを傷つけた」といいますが「要素と要素の組み合わせ」でしかないあなたの一体どこが傷ついたというのでしょうか?

I was nowhere
どこにも私(我)はいない……。

電化製品と同じで、人の体も部品が組み合わさることによって動いているのです。

どこにも「主体」がないんです。

これが「無我」という事です。

さらには、ある人と人の組み合わせが「友人」にもなれば「職場の仲間」ともなり、「恋人」や「夫婦」にもなります。

change fluidly depending on conditions
どこにも絶対な変わらない「私」は存在しません……。

昨日まで仲が良かった「組み合わせ」があるとき「ライバル」「敵」「絶交」「離婚」になる事もあったりします。

全ては人と人との流動的(無常)な「組み合わせ」でしかないので「絶対的な形」なんてありようがないのです。

これも「すべてのものには実体がない(無我)」という事になります。

このように「すべてのものは要素の組み合わせでしかなく、絶対的な形がない」と観察する事が「正見」となります。

「なぜこの関係がおわってしまったのだろう……」と悩んでしまうのは、そこに「絶対的な姿ががある」と観ているからです。

悩んでいる「私(我)」が存在すると思っているからです……。

これは「邪見」となります。

因果

因果とは「原因と結果」という事です。

ここでの「正見」は「物事は偶然に起きているのではなく、因果によって起きていると理解する」という事ですね。

ちなみに、よく「あなたのお家は先祖の因果が悪いから、運勢が良くないのよ」なんて言うおばちゃんがいたりしますが、それは「因果」の使い方を間違っています。

それは「邪見」です。

因果とは「原因と結果」という事です。

今、起こっている事「結果」があるのは、何か過去にその出来事を引き起こす「原因」があったという事です。

これは、とっても科学的な話です。

ただおしゃかさまは「人間にはその原因をすべて突き止める事はできませんから、無理に調べようとしなくていいですよ」と戒めています。

例えばあなたが交通事故にあったとします。

その原因はあなたの不注意からはじまり、その時間にその場所に行ったこと……と、いくつか考えられます。

しかし厳密に言えば、昨日食べたご飯、昨日寝た時間だって影響しているのです。

なぜなら、それによって起きる時間が代わり、朝食、昼食のメニューが代わり……。

「昨日とんかつ食べたから、今日はそばにしよう……」とそば屋に向かった先で事故をしたとしたらどうでしょうか……。

しかしそ考えていくと、さらにその前日にあった出来事、さらにその前日にあった出来事……と、ドミノ倒しのように「原因」を遡っていける事になります。

Cause and effect continue to connect
原因を厳密に探り出すことは人間にはできないくらい因果は複雑らしい……。

これではキリがありません。

ですからおしゃかさまは「原因を遡る必要はありませんよ」といっているのです。

占いも、原因のいくつかは解明できるかもしれませんが、おしゃかさまは「人間の能力では、すべての原因を遡ることはできない」とおっしゃっています。

ただ「この世は原因と結果で成り立っている」という法則は忘れないで下さい。

それが「正見」となります。

四諦説

さらに「四諦説を理解する」事も正見といわれています。

四諦説「苦・集・滅・道」の各説明についてはこちら。

苦諦について

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集諦について

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滅諦について

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「苦しみは滅する事ができる(滅諦)」(四聖諦③)
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道諦について

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path to enlightenment
悟りへの道しるべ。

これは先の「この世の全ては苦である」という事を理解して「解脱に向かいたい」と思うことですね。

「四聖諦」で説く所の「苦の原因である煩悩の炎を吹き消して、究極の安らぎの境地である『涅槃』に到りたい」と願うのが「正見」であるというのですね。

Desire is likened to a blazing fire
煩悩はよく、燃えさかる炎に喩えられます。

このスタートが変わってくると、このあとの努力も目標も全てが変わってきそうです。

おしゃかさまは「四聖諦」を真理であると信じる事が「正見」となるといい、そこから「正しい努力」「正しい精神統一」が始まる、と言っているのです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

「正見」は八正道の中で一番大切であるといわれています。

それは「見解が私たちの行動を決めている」からです。

「八正道」は解脱に到る為の道しるべではありますが、私たちが幸せで穏やかな人生を送るための良き指針にもなります。

とくにこの「正見」の教えの中には、悪を避けて善を行い、自分の人生をよりよくしていく為のヒントがたくさんあると思いますので、是非とも参考にしてみて頂きたいと思うのです。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

くてい拝

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