ブレイクブログ「苦についての話」
今回は、前回に投稿した「ブッタの「苦」の教え。」の裏話のようなお話です。
本編では書けなかった話を、こちらで書かせて頂こうかと思います。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
仏教の「苦」との出会い。
今までのブレイクブログにも書いていますように、私は人生に悩み、お坊さんの道を選びました。
ですから私にとってお坊さんになる事は「自分の苦しみに対する答えを見出す事」でした。
おしゃかさまの性格?
私は修行道場に入ってすぐに「仏教学」の先生から「おしゃかさまは、この世の一切は苦しみであると言ったのだ」と聞きました。
私が、その話を聞いたときに最初に思ったのは「あぁ、きっとおしゃかさまは暗い性格で、そんなおしゃかさまから生まれたのが仏教なのだな……」という事でした。
実際、仏教学の先生もこの時「おしゃかさまは内向的な性格だったのかもしれませんね~」と言っていたくらいです。
私も人生に悩み、どちらかというと「内向的」な性格だったので「だからこそ人生に悩み、道を求めたんだろうな……」とも思えました。
だた、そんな私でさえ「人生は苦しみであるだなんて、ちょっと言い過ぎじゃないかな……」と思いました。
なぜなら、人生には、確かに苦しい事もありますけど、楽しい事もたくさんあるだろう、と思ったからです。
欲しいものがあるから苦しむ。
それに対し、仏教学の先生は「人は欲しいものがあるからから苦しむのだ」とおっしゃいました。
人は「物を持てば物を持つことに苦しみ、パートナーや子供を持てば、持った事に苦しむ。そして失えば、また苦しむ……。」と……。
だからこそ「無欲だったり、欲が少ない事が自分の苦しみ少なく生きるコツだ」というのです。
確かにそう言われればそうなんでしょうけれど、私のような凡人からすれば、そんな風に「欲を出さないように」生きる事がすでに苦しい(笑)
だって、人生には楽しい事っていっぱいありますからね!
もしそれを極める事が苦しみを克服する唯一の手段だとするならば、そのように生きる事ができる人って、とっても稀か、よほど「(苦しみから解放されたいという)目的が確かな人」だけなのではないでしょうか……。
私にはそんな人生、選べそうもありませんでした……。
覚悟がなかった……ともいえるかもしれませんケドね……。
日本の仏教の救いの形。
さらにこの「苦しまないためには、欲を少なく生きる」というテーマを「私にとって関係のないもの」というような気持ちにさせていたのは、日本の仏教では、お坊さんも家族を持ち、財産を持ち、子供をもうけ……なんら一般人と変わらない生活を選べるからです。
なんなら、お寺の「跡継ぎ」を作るために積極的に「結婚や子供ができる事」を求められるくらいです……。
そして、さらにありがたいことに、こんな私でも救われる道が、日本の仏教の中には、いくつも用意されています。
それはお念仏だったり、お題目だったり、ご真言だったり……。
そうした実践をしながら、家庭を持ち「苦しみを少しでも減らし、楽しい出来事を少しでも増やせたら人生は幸せだ」と教えられ、まぁ、そんなもんか、と、ずっと思ってきました。
解決しない悩み
しかし、宗派的実践をくりかえしながら、世間の人々と同じような生活をして、喜びもあれば苦しみもあるような生活をしていても……私の心が本当に安心する日は来ませんでした。
日々、人を怨んだり、うらやんだり、人よりマウントをとる事を求めたり、損得や勝ち負けに一喜一憂すしている人生に、ほとほと疲れていました……。
確かに、世間の楽しい事は私を瞬間的に満たしてはくれるけれども、その喜びはいつまでも続かないし、もっともっと手にする事を求めてしまう。
さらには、求めて得たものでさえ、つもりに積もって自分を息苦しくさせている……。
近年、「片付け術」や「断捨離」などが流行ったのは、多くの人が同じように「人生のこうした問題」に疑問を感じているからなのではないでしょうか……。
私は、自分が常に持っている「根本的な、生きる苦しみに対する、ちゃんとした答え」を見いだせないまま、お坊さんになり、なんとなく「自分を誤魔化して」生きてきたという事に、気づかされました……。
おしゃかさまの言いたかった事。
そんな時に出会ったのが、同じ仏教でも、タイやスリランカの仏教である、上座仏教の本をでした。
オススメ参考文献 「苦の見方」アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版
読んだ時、自分の仏教理解の浅さを知る事となりました。
「人生は苦である」というおしゃかさまの教えは「おしゃかさまが暗い性格だったから……」とかそんな理由で終わらせていいようなテーマではなく、人生における真理を顕した、とてもとても深い見識だったのです。
誤魔化し続ける……。
前回も紹介しましたが、もう一度、同じ部分から引用してご紹介しますね。
生命は何をするものかといえば、「苦を変える」ことをするのです。苦をなくすのではありません。苦をさまざまな苦に変換するのです。
たとえば、一人でごはんを食べるとき、それは「空腹」という苦しみを変えようと思って、食べることにします。しかし、それでも苦しみを変えるのに足りない。それでテレビをつけて、テレビを見ながらごはんを食べたりするのです。
とにかく、人は生きる上で、苦しみをいろいろな方向に変えています。人間がやっている一切の生きるための行為は、感覚がやらせているのです。人間だけではありません。すべての生物がやっている一切の行為は、感覚がやらせているのです。この感覚が、苦(dukkha) なのです。
生きている細胞を一個、顕微鏡で見てください。 アメーバみたいに、ぐにゃぐにゃ、ぐにゃぐにゃ動いています。もしも動かなかったら、ものすごい苦しみで死にます。(中略)座っていると苦しくなってくる。それで立つ。立っていると苦しくなってくる。 そうすると歩く。歩くと苦しくなってくる。そうするとまた止まる。止まっていると苦しくなってくる。また座る……….。そうやって、永遠に、我々は苦を変えていきます。
生きることはただ、それだけです。ほかには何もないのです。苦しみがなければ、勉
強もしません。「苦の見方」アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版 p110~p113
「生命は何ぞや」「生きることは何ぞや」 「神様はいるのか」「死んだら私は天国に行くのか」などという悩みがあるでしょう? あれも、苦しみがあるからです。
如何でしょうか。
私は今まで、旅行に行くことも、おいしいものを食べる事も、欲しいものを買うことも「喜び」だと思っていました。
確かに旅行は楽しいですが、しばらくすると日常に戻りたくなります。
家に帰りたくなります。
食べる事は喜びかもしれませんが、ずっと食べ続ける事もできません。
食べ続けると苦しくなります。
立っていれば苦るしくなり、座りたくなります。
しかし座り続けているとまた苦しくなり、今度は立ちたくなります。
どうも生命にとっては「ジッとしている事が苦痛」のようなのです。
もちろん、これらは人間にとって、喜びや楽しみを与えてくれるものであることには間違いはないのですが、実際の所は、私達が喜びだと思っている事も、瞬間的な快楽は与えてくれるかもしれませんが、ずっとその状態であれば「苦痛」であり、その苦痛から逃れるためにまた「違う苦痛の種」を選んで誤魔化し続けているだけなのだ……というのです。
そんな風に、考えた事もなかったですが……。
確かにそうかもしれないな……と、私は感じました……。
私自身の気づき。
私もこの本を読んでから、よくよく考えさせられました……。
たとえば「食」について、です。
私は食いしん坊なので「大盛り」が無条件に大好きです(笑)
どこかに食事に行くと「大盛り」じゃないと損した気分になっていたくらいです(笑)
毎回、食事が終わると食べ過ぎて「苦しくなる」のですが、それでも食べる事自体が好きなので「自分は幸せな事をしているのだ」と、ずっと疑っていませんでした……。
しかし、この本を読んでから、あらためてその時の事を考えてみると……確かにその食事を「おいしく感じる」のって最初の二口くらいなんですよね……。
最後の方は、だいたい味が分からなくなっています。
冷たいアイスも、味が分かるのは最初の数口。
だんだんと(冷たくて)味が分からなくなっています。
それでもなんだか「おいしい感じ」「自分は幸せな事をしている」という感じがして、食べ続けていたんですよね~。
でも、この学びを通じて、これ「大盛り」じゃなくても本当はいいんじゃない?「適量」ってあるんじゃない⁈本当は自分は(途中から)苦しみを感じていたのかも?……って気づかされました(笑)
まとめ
如何でしたでしょうか。
本編と分けた理由。
本編の「ブッタの「苦」の教え。」の方は、辞書のような感じで、なるべく「客観的な内容のみ」でこれからの為に残しておきたかったので、私の経験はこちらに書かせて頂きました。
本編が長くなりすぎてもいけない、と思いましたし、かといって、本編だけでは説明しきれない部分を私の経験からも読み取って頂けるのではないか、と思って二つになったのです。
両方を読んで下さると、さらに理解が深まってくださるのではないかなぁ、と思っております。
悩んだときのヒントになれば……。
おしゃかさまは悟りを開き、深い洞察の末に、私達が生きる事は「苦」である、と発見しました。
私も、この話を聞いてやっと納得し「欲を欲で誤魔化して、最後には自分で息苦しくなるような生き方から本当に離れたいな」……と、思えました。
今、自分の生き方を、少しずつでも変えていけそうな気がしています。
ただ、そうはいっても、人生における「楽しい事」は楽しい事として楽しんだらよいとも思うのです。
わたしも、目の前に訪れた「楽しい事」はこれからも遠慮せず、楽しんでいくつもりです。
しかし今回お話させて頂いたような理(ことわり)を覚えておいて頂けると、本当に人生に困った時に、自分を救えるヒントとなってくれるのではないかと思っているのです。
今回のお話がみなさんにとって、人生が楽になるヒントになってくださったとしたら……幸いです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
合掌 くてい 拝