おしゃかさまが説かなかったこと。(後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
おしゃかさまの教え
解脱に必要でない話は、重要ではない。
さらに別の時には、こんな話もされています。
「あるときブッダは、コーサンビ(アラハバッド近郊)のシンサパーの森に滞在していた。彼は、木の葉を数枚手に取り、弟子たちに尋ねた。
『ブッタが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫 p48~p49
「弟子たちよ、どう思うか。私の手の中にある木の葉と、森の中にある木の葉と、どちらが多いか」
「師よ、師の手の中にある木の葉は実に少なく、シンサパーの森の中の方が、ずっ
と多くの木の葉があります」
「弟子たちよ、それと同じく、私が教えたのは、私が知っていることの、ほんの一部に過ぎず、説かなかったことの方がはるかに多い。 なぜ説かなかったかというと、それらはニルヴァーナに赴くのに役には立たないからである。それゆえに説かなかったのである」
如何でしょうか。
おしゃかさまは「生きる苦しみを完全に滅していく方法」をお説きになられました。
おしゃかさまは徹底して「悟りに必要ではないことは説かなかった」ようなのです……。
しかしここで混乱するのは「そうは言っても、現在の仏教の教えの中には、極楽とか、死後の世界や、仏さまとかたくさんいるんじゃないの?」という事です。
この矛盾した教えは一体、なぜ存在しているのでしょうか……。
前提がちがう仏教
仏教はインドで活動した、おしゃかさまの「解脱(さとり)」の体験から始まりました。
おしゃかさまがなくなった後、仏教はインド国外にも伝搬していきます。
その中で中国、日本と伝わっていった仏教の流れを「北伝仏教」といい主に「大乗仏教」と呼んでいます。
それに対し、タイやスリランカの方に伝搬していった仏教の流れを「南伝仏教」といい、主に「上座仏教」と呼ばれています。
「北伝仏教」と「南伝仏教」の大きな違いは、南伝仏教が「おしゃかさまの教えをなるべく純粋に伝承していこう」としたのに対し、北伝仏教は「伝搬していった地域の文化や宗教なども吸収しながら独自の形に発展していった」という所なのです。
その結果、南伝仏教には「神仏を信仰する」という教えはなかったのですが、北伝仏教では「信仰」という形態が新たに生まれることとなりました。
元々、世間に対して受容的だった仏教が(特に北伝においては)そのように発展していったという訳なのですね。
そのような理由から、私達日本人になじみが深い北伝仏教(大乗仏教)では「形而上学的な世界に対してもいくつかの答えが提示されている」といった形になっていったのです。
結果、北伝仏教では「不可思議な神仏の世界が存在する事が前提」ですから、熱心な人ほど、形而上学的な話もくわしく知りたいと思うようになります……。探究すると思います。
形而上学的な問題をくわしく知る事が「悟りに近づいていること」という感じ方も生まれてきそうです……。
実際、私がそう思っていましたから……。
そうなると、不思議な話を聞いて「あぁ、仏さまって本当にいるかもしれないな~。ありがたや~。これが仏教か~。」というような人達も生まれてきます……。
もちろん「信仰」を通じて「苦しみから解放される」といった道筋があるからこそ、北伝仏教では「信仰という方法を受容した」訳なのですが、元々のおしゃかさまの「戒め」(先の、マールンキャプッタさんへの話のような)を知らないと「形而上学的な世界を探究していく事が仏教」という誤解を生んでしまいます。
しかしおしゃかさまはハッキリとおっしゃっている訳です
「(形而上学的な問題)は、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繋がらない」と……。
ここ、最終的に自分が迷わない為にも、とっても重要なポイントだと思うのです……。
まとめ
如何でしたでしょうか。
おしゃかさまが伝えたかった事と、現代のバランス。
世間では仏教の名の元に、不思議な話を聞くことがあります。
そんな話は時に魅力的で「世界の真実を知れたような気持ち」にさせてくれたりします。
もちろんそうした話の中にも真実はちゃんとあり、時に信仰を深めてくれたり、自分の疑問を解消するヒントになる事もあります。
私も、自身の探究の為に、そうした話からも学ばせて頂いています。
しかし、世間の方が、先のおしゃかさまの言葉である「(形而上学的な問題)は、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繋がらない」という話を知らないままでいたら、かつての私がそうだったように、神秘的な教えを知る事が「仏教」であり、神秘的な力を持つ人が「悟った人」であるという「誤解」を生む事もるのではないかと私は思ったのです……。
形而上学的なお話も魅力的ではありますが、それを知るだけでは「真のやすらぎ」には至れないとおしゃかさまもおっしゃっていますからね。
現代の神秘的な教えも含んでいる大乗仏教(北伝仏教)をベースに文化を営んでいる日本の私達は、北伝仏教によって伝えられてきた「信仰」の部分も大切にしつつ、南伝仏教に伝わっているおしゃかさまの言葉を学ぶことによって、より冷静に、よりバランス良く世間を見渡す事ができるようになるのではないかな~、と思うのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
合掌 くてい 拝
オススメ参考文献
『テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッタのおしえ』アルボムッレ・スマナサーラ著 大法輪閣