苦しみを滅する方法がある「道諦(どうたい)」(四聖諦③)後編
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
- もう人生で(本気で)苦しみたくない!とおもっている方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
中道と八正道。
中道とは……
私たちは常に「何かしらの見解(意見)」を持って生きています。
それは、つまらないことから重要な事まで……。
「生きるという事は見解を持つこと」といえるくらい自然に……私たちは「見解・意見・主義・主観」を持ってしまうのです……。
しかしどんな見解でも、それを持った瞬間に、相反する見解の人との対立を生んでしまいます。
だからこそおしゃかさまは、私たちが「あらゆる固定概念や偏見、主義や主観に心が偏らないように」常に心が「中道(中立・中庸)」であることを進めているのです。
この世はニュートラル
外の景色を観てみてください。
私たちは、観たモノにすぐに意味をつけようとします。
「良い天気」とか「悪い天気」とか「よろこび」とか「かなしみ」とか……。
しかし、本来、景色には「意味」が存在しません。
意味をつけているのは「自分」です。
そして、つけた意味に対してひとり、喜んだり、悲しんだり、一喜一憂しているのです。
これじゃあまるで「ひとり相撲をやっているのと同じ」じゃないでしょうか……。
おしゃかさまの出家の動機。
おしゃかさまは出家前、お城の王子様でした。
当時は何不自由のない生活をしていたそうです。
しかし人生には「生老病死」の苦しみがあることを知り、思慮深いおしゃかさまは、
「快楽を享受しつづける人生より「生老病死」の問題を解決する事の方が、人生に於いては先決なのではないか?」
と考え、王子様の地位を捨てて出家したのでした。
「生老病死の苦しみ」の解決を求めて……。
おしゃかさまは出家してすぐに二人の仙人を訪ねて弟子となりましたが、すぐにお師匠様と同じ境地に到ってしまったそうです。
お師匠様達は「自分の後継者になる事」をおしゃかさまに求めましたが、おしゃかさまはそれらをすべて断わったそうです。
おしゃかさまは、お師匠様達の境地や教えには満足していなかったのです。
そこで今度は、当時の出家者達の風習に習って「苦行者の世界」に入っていきました。
この苦行は六年にも続き、壮絶を極めたそうです。
伝承によれば、おしゃかさまの体は骨と皮だけになり、天の神々もあまりの苦行の姿に「おしゃかさま、もしかして死んでしまったんじゃないの?」と疑ったほどだったそうです……。
苦行者の世界では「苦行によって身心を徹底的に清めれば、解脱に至れる」と考えられていたのですね。
中道の発見と解脱。
そんなある日、川のほとりで瞑想をしてると、船に乗った「琴師の師弟」の会話が聞こえてきました。
「琴の弦は、ゆるみ過ぎると音が出ない。しめすぎると切れてしまう……」
この言葉を聞いておしゃかさまは「自身の修行の過ち」に気づかれたそうです。
「王宮にいた頃の緩み過ぎた生活も極端だけれど、体を痛めつける苦行もまた極端なのではないか……」と。
そこでおしゃかさまは川で身を清め、托鉢を再開し、健康を回復してから菩提樹の木の下に座り、一説によれば、自身の心を観察し続ける瞑想である「ヴィッパサナー瞑想」に修行を切り替えたそうです。
そしてついに完全に苦を滅した境地である「解脱(げだつ)」の境地へと到ったのでした。
サマタ瞑想と、ヴィッパサナー瞑想。
おしゃかさまがお説きになった瞑想法には「サマタ瞑想とヴィッパサナー瞑想」があります。
「サマタ瞑想」は、何か「特定の対象に集中する瞑想法」です。
深い集中力により、三昧(ざんまい:サマーディ)という境地に到ります。
おしゃかさまが二人の仙人さまから学んでいた瞑想法なども、こちらに入るようですね。
それに対し、ヴィッパサナー瞑想は「心の状態に気づき続ける」瞑想法となります。
次々に沸き続ける「思考や感情や判断、自身の固定概念や偏見、主義や主観」に、じっくりと「自分の心を観察し続けながら「気づき続ける」のです。
その事によって、揺れ動く心を常に「中道に戻していく訓練」をするのです。
おしゃかさまは、二人の仙人からの修行や、苦行によって「サマタ瞑想」は存分にやり続け深い三昧には到達していたそうですが、求めていた「完全なる安らぎの境地」には到れなかったようなのです。
そこで、それまでの修行をすべて捨てて「ヴィッパサナー瞑想」に切り替えたところ、ついにおしゃかさまは「解脱」に到った、という事なのです。
ヴィッパサナー瞑想をやっていると……。
ヴィッパサナー瞑想をやっていても、もちろん妄想は沸いてきます。
そんな時、最初は落ち込むし、妄想を「消そう」とします。
しかしそれでは、集中をめざす「サマタ瞑想」になってしまうんですよね……。
ヴィッパサナー瞑想では「妄想している自分に気づく事」が重要なんです。
そして、瞑想を続けている内に、この「妄想」は自分の「内側から沸いてくる事」に気づいてきます。
心のなかにあるいろんなモノが心の表面に「浮上してくる」といったカンジですね……。
すると「あぁ、心をキレイにしないと、妄想って終わらないんだ」とういう事にだんだん気づいてきます。
そこではじめて「普段から『心を整えていくための考え方』や『戒律』とよばれるような、いわゆる『道徳』が大事な事が分かってくる」のです。
幸せの方向性……。
私も、もちろん、即効性のある幸せも捨てがたいのですが……。
ここまでくると「欲望が少ない幸せ」や「心が乱れないしあわせ」にも魅力がある事が分かってきます。
根本治療である「体質改善」の方に関心が出てくるってやつですね(笑)
すると、この「中道」を極めるために、もう一歩「具体的な方法」に足を踏み入れざるをえなくなってくるのです……。
そしてそれが、おしゃかさまがお説きになった「八正道の教え」となっていくのです……。
八正道とは
八正道とは「解脱に到る為の八つの方法」です。
この八つの方法は連動しています。
どれか一つを実践すればよい、という事ではなく、この八つの方法が互いに助け合い、より深いヴィッパサナー瞑想(正念)に私たちを誘導し、より深いサマタ瞑想(正定)に我々を導くのです。
そうして「中道」を保つ事ができて、ついには「解脱」に至るのですね。
ついにこころの「完全な安らぎ」を得る事が出来るのです。
八正道とは、
- 正見(しょうけん):正しい理解
- 正思惟(しょうしゆい):正しい考え方
- 正語(しょうご):正しい言葉
- 正業(しょうごう):正しい行い
- 正命(しょうみょう):正しい生活
- 正精進(しょうしょうじん):正しい努力
- 正念(しょうねん):正しい注意
- 正定(しょうじょう):正しい精神統一
になります。
次回のブログでは、この八つの項目をくわしくお伝えしていきますね。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
つづく
※今回のお話は、次回の「八正道について」の話や、補足の「ブレイクブログ」を共に読んで下さることによって、さらに深く理解して頂けるように成ると思います。
よかったら、次回からの二つのブログも読んでみて下さいね。
ちなみにこの文章は、二つのブログが完成したら消します(笑)
初稿を読んで下さった方だけへのメッセージです。
くてい 拝