「苦しみの原因とは何だろう?(集諦)」(四聖諦②)前編
今回は、おしゃかさまが悟りに到る道筋を説いた「四聖諦(ししょうたい)」の中から「集諦(じゅうたい)」について説明させて頂きます。
- 人生の苦しみについて、仏教はどう考えているのかを学びたい方。
- 人がなぜ苦しむのか、の原因について知りたい方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
集諦(じゅうたい)
おさらい~苦諦(くたい)とは?
四聖諦(ししょうたい)とは「苦諦(くたい)」「集諦(じゅうたい)」「滅諦(めつたい)」「道諦(どうたい)」という「悟りに到る四つの道筋」をまとめた教えです。
合わせて「苦集滅道諦(くじゅうめつどうたい)」とも呼ばれます。
前回は、この「四聖諦(ししょうたい)」の中の「苦諦(くたい)」について紹介させて頂きました。
「苦諦」とは「人生の一切は苦しみである」という、おしゃかさまの「悟りの結論」をあらわした言葉になります。
ここはとても大事なポイントになります。
おしゃかさまは「人生には苦しみもあれば、楽しみもありますよね……」とは言っていないのです。
「人生の一切は苦しみである(一切皆苦)」という見解が、おしゃかさまの悟りの「最終結論」なのです。
「苦」については、前回のブログに書かせて頂きましたので参考にして下さいね。
「集諦(じゅうたい)」とは?
今回は「集諦(じゅうたい)の説明に入ります。
「集諦」の「集」には原因という意味があるのですが、続く「集諦」は「その苦しみの原因とは何なのか?」について説かれた内容となります。
「人はなぜ苦しむのか?」について説かれた内容、という事ですね。
おしゃかさまは私達の苦しみの原因を「渇愛(かつあい)である」と言っています。
いわゆる「執着」「煩悩」の事になります。
これは、砂漠で人が水を渇望するように「はげしく愛する対象に執着する姿」を顕した言葉です。
おしゃかさまは「人生の全ては苦」と発見した時に、それならばなぜ人々が、その「苦」を追い求めるのか、といえば、その背後に、自己や対象に対する「愛欲、執着、煩悩がある事を発見した」のでした……。
それではなぜ、私達には「渇愛」があるのか?
そしてなぜ、私達に「渇愛」、いわゆる「煩悩・執着」があるのか、といえば、それは「無明(むみょう)」であるからだ、というのです。
「無明」には「真実に対して無知なこと」といった意味があります。
私達は、この世界の真実(真理)を知らないが故に「自分や他者、物に執着している」というのですね。
そしてこの「無明」と「渇愛」がある事によって、わたしたちは無始(むし)といって、始まりが分からない程の昔から「生まれては死に、生まれては死に……と、輪廻を繰り返している」というのです……。
例えれば……。
今回の「わたしたちは、真実を知らない(無明)であるが故に、渇愛を生み、輪廻を繰り返している」という話を分かりやすく説明する為に「テレビゲーム」の譬え話で説明してみます。
私達が、テレビモニターの前でゲームをしているとします。
ゲームにのめり込むうちに、ゲームの世界の価値観に没頭し過ぎて、レベルをあげる事や、お金を貯めること、アイテムを買うことに必死になっています。
そのうちにゲーム内で死んでしまうのですが、没頭しすぎているので、それが「ただのゲームであった」事さえ忘れだしてしまいます……。
ゲーム内での成功を狙うべく、しばらくの休憩後、またゲームに没頭しだします。
そしてまたゲームオーバーになるとリセットされ……ゲーム内での成功をめざしてまたゲームスタートし……そうやって、もう始まりも忘れてしまったくらいの過去から、ずっとこのゲームの世界に入り浸っています。
まさに、やめられないし、止められない状態……。
これが「輪廻にはまっている」私たちの姿です。
この喩えでいえば、おしゃかさまも(この世で生を受けた以上、)最初はこうしたゲーム内のプレイヤーの一人だった訳です。
しかしおしゃかさまは「何かおかしいぞ?」と、現実に疑問を持ったのですね。
そして、自分が画面の前で「ゲームの世界の価値観(つくられた価値観)に没頭している事に気づかれた」という訳なのです。
おしゃかさまの目からゲームの世界に没頭している人達を見ていると、まずはプレイヤーそれぞれが「自分がゲーム(この世界)にのめり込んでいる事」に気づいていません(無明)。
ゲームの中でレベルをあげたり(出世)、お金を稼いだり(財産)、アイテムを増やしたり(物欲)する事に必死になっています。(渇愛)。
「もっともっと成功したい」「今度こそ高得点を狙いたい」と思っているので、その結果、一度死を迎えても、またこの世界に舞い戻ってきてプレイを再開する事を自ら求めます。(輪廻)
この世界に没頭しすぎているので、本当はモニターの前でゲーム画面を「観察しているだけ」「見ているだけ」という事に気づいていないのです。
おしゃかさまはこのからくりに気づかれたのですね(悟り・解脱)。
以前「マトリックス」という映画がありましたが、あれが例えとしては分かりやすいのではないでしょうか……。
あくまで「喩え」ですが、現代人には分かりやすい話なのではないかと思うのです……。
後編に続く……。