なぜ宗教・宗派によって、言ってる事が違ってくるの?(仏教以前⑩)
みなさん、こんにちは。
今回は、宗教、宗派によってなぜ言っている事が違うのかについてお話をさせて頂きたいと思います。
- なぜ宗教・宗派によって言っている事が違ってくるのか気になる方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
なぜ違うのか、を考えてみる。
まずはおさらい。
私は以前のブログ「科学と宗教の始まり」の中で、昔の人々が「真理・無限・全能の神」という自分達を超えた「何か大いなるもの」の存在を確信したという話をさせて頂きました。
そしてさらに「真理に到るさまざまな道」のブログの中で、人類が「真理・無限・全能の神」というべき「何か」を発見する為に、さまざまな探究方法を紡ぎ出していった、というお話もさせて頂きました。
つまり昔の人々が「真理・無限・全能の神」といわれるものを「どうやったらそれを知る事ができるのか」と探っていくうえで「さまざまな宗教が生まれた事」は必然的であるといえそうだ、という事です。
逆説的に言えば「多くのの宗教は、同一の目的に向かって進んでいる」と言えるのでしょうね。
ここで「全ての宗教」とは言わないのは、世の中にはサギまがいの宗教もあるからです。
しかし、ここで疑問が生まれます。
例えばある宗教・宗派では「戒律を厳格に守らなければいけない」といい、ある宗教・宗派では「戒律は守れなくても仕方ない」といいます。
ある宗教・宗派では「結婚して良い」といい、あ宗教・宗派では「結婚してはいけない」といいます。
同じ真理から顕れたのであるならば、答えが同じであってもおかしくないと思いますが、なぜこんな風な違いが生まれるのでしょうか……。
よく使われる喩え。
この「多くの宗教は同一の目的に向かって進んでいる」という考え方を分かりやすく説明している「喩え話」があります。
「多くの宗教・宗派は、同じ山の山頂を目指しているという喩え」ですね。
この喩えには「宗教・宗派同士が争う必要はないですよね」というメッセージも含まれているのだと思います。
宗教同士の平和と共存を考える上でとてもよい喩えだと思います。
しかし今回は「なぜ宗教・宗派に違いがあるのか?」を探っていきたいので、同じメッセージの違うバージョンを作成してみました。
それがこちら。
「多くの宗教・宗派は同じゴールを目指しているの喩え」です。
上の図をご覧下さい。
スタート地点からゴールに到るまで、さまざまな方法があります。
ある人は上ルートを「山登り」で向かいます。
ある人は真ん中ルートを「水泳」で向かいます。
またある人は下ルートを「車」で向かいます。
方法論は違うけれど多くの宗教・宗派が意識的ではないにしろ「同じ真理というゴール」をめざしています。
必要なものが違う
先ほどの「多くの宗教・宗派は同じゴールを目指しているの喩え」を使って、はじめの問題について考えてみましょう。
山に登ろうとする人と、湖を泳いで渡ろうとする人ではおのずと必要なものが変わってきますよね。
山を登る人はリュックを背負って、登山靴を履いて、時には杖をついて山に挑みます。
一方、湖を泳いで渡ろうとする人には水着が必要になります。
リュックや登山靴、杖は必要ないですよね。
逆に山に登る人には水着は必要ないでしょう……。
選んだ道によって必要なものは違ってきますし、他の道で「必要」と言われていたものが他の道では必要でなくなる事は多々あります。
しかしどの道を通ろうと最終的には同じ目的に到達します。
なぜ宗派によって違うのか
わたしはかつて悟りを開いたといわれるK先生に「なぜ仏教宗派のお祖師さまによって同じ仏教なのに言う事が違うんですか?」と聞いた事がります。
すると先生は「それはお祖師さまによって大事にしている事が違うからだよ」とおっしゃいました。
確かに仏教の中でも、曹洞宗の道元さまは「純粋な仏道」を求められた、といえるかもしれません。
真言宗のお大姉さまは密教によって「速やかに悟りにいたる道」を選んだともいえます。
浄土宗の法然さまは「誰もがすくわれる道」を選んだといえます。
そしてそれぞれの道によって、使う道具や方法論も変わってきますし、戒律に対する考え方も違ってきたりします。
星空のたとえ
ここで喩え話を紹介します。
ある、となりあったA村とB村の村人どうしが、互いの村の伝承に違いについて論争をしていました。
同じ夜空に浮かぶ星を「どう繋いで何座とするか」で言い争っていたのです。
A村うさぎ「うちの村では、あの星とあの星をこーつないで『ダイアモンド座』として伝わっているんだ~!」
B村ネコ「何を言っているんだ。うちの村では、あの星とこの星をこーつないで『ダビデのほし座』として伝わっているんだ~!」
A村うさぎ「何を!うちの村の伝承に言いがかりをつけるのか~!」
B村ネコ「そっちこそ、うちの村をバカにしているのか~!」
お互い引くことなく、ずっと争いをしていました。
そのとき、近所の山に住む、何でもよくご存じの「ブタ仙人さま」が山から下りてこられました。
「そうだちょうどよい。ブタ仙人さまにお聞きしよう」
二人はそのように合意し、ブタ仙人さまをその場にお呼びし、お聞きしました。
A村ウサギ「ブタ仙人さま。あの星は「ダイヤモンド座」で間違いありませんよね!」
B村ネコ「いやいや。ブタ仙人さま。あの星は「ダビデのほし座」で間違い有りませんよね!」
二人はブタ仙人さまの前でも争いを止めません……。
そこでブタ仙人さまは、おもむろに口を開きました。
「おぬしらはどちらの星座が正しいかと言い争っておるが、夜空をみてごらんなさい。どこにそんな星々を結ぶ線があるんだい?それをまずはわたしに教えてくれないか。」
二人は黙ってしまいました……。
大事なポイントは同じ。
星座で結ばれる星って、キラキラと光って分かりやすい星が多いですよね。
それぞれの宗教・宗派でも大事なポイントはよく似ています。
「人に親切にしましょう」とか「盗みはだめですよ」とか、ですね。
しかし「結び方が違うと、全然違う絵になって見えてしまう」のです。
ときに周囲にある「すこし暗い星」と結んで「特殊な星座」が生まれてくる事がりあます。
するとより「宗教・宗派の違い」が色濃くでてきてしまう事になるかもしれません……。
しかし大切なポイントは、この喩えでいえば「共通する星」なのではないでしょうか……。
自分の所属する宗教・宗派だけが正しい!と、顕れた「姿」に囚われてしまうのではなく、重要なのは、その共通する「部分」ではないかと思うのです。
違う部分をもちろん大切にしながらも「共通する部分」にこそ目を向けてみて欲しいと思うのです。
そこにこそ本当の「真理」があり、他宗教との「調和」があるのではないでしょうか……。
まとめ
如何でしたでしょうか。
「星空の喩え」から考える。
この世界には、たくさんの宗教。宗派が存在しています。
そしてそのそれぞれに大事にしている事が違い、主張も違ってきたりします。
その主張の違いにばかり目をむけると混乱してきそうになります。
しかし「星空のたとえ」のように、宗教・宗派の違いは「線の引き方の違い」のようなものです。
本来、大空には線は存在しない。大空(真理)は私たちの認識をはるかに超えた世界なのです……。
「多くの宗教・宗派は同じゴールを目指している」から考える。
そして宗教によって主張すること、大切なことが違ってくるのは「多くの宗教・宗派は同じゴールを目指しているの喩え」で説明ができるのではないでしょうか。
山に行くのにシュノーケルや水着は必要ありませんし、海に行くのに登山靴や大きなリュック、杖は必要ないかもしれませんよね……。
それぞれの道に「特有のルール」「必要なものの違い」が生まれるのは「必然的」だといえそうです。
大切な事
大切な事は「真理とは、あらゆる道を包括している」という事なのだと私は思うのです。
道を少しすすむ度に「他の道もいいカナ」と引き返していたら、いつまで経ってもゴールに到着しません。
船乗りは星座を観て進行方向が間違いないかを確認したでしょう。
道や星座(形・方法論)がある事で私たちは真実に向かって進む事ができます。
しかし、その道、その星座、その特有のもの自体を絶対視していたら、そもそもの目的からは外れてしまいます。
道がなくてはゴールに到着できません。自分が選んだ道を他者とくらべず、たんたんと前に進むだけです。
星座(形)がなくては方向がつかめません。船乗りさんのように、星座を「利用」して前にすすむのです。
今回は、宗教・宗派が言っている事の違いがなぜ存在するのかを喩えをもって説明させて頂きました。
あくまで一つの考え方でしかありませんが……。
世に中からすこしでも対立や争いがなくなってくれる事を私は望み、今回のお話をアップさせて頂きました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい 拝