死者の為にできること、自分の為にできること。前編(仏教以前⑪)1/5
今回は、私が仏教や他の宗教、スピリチュアルな世界を探究をしていくなかで学んだ事をお話させて頂きたいと思います。
ちなみに今回のお話は、純粋な仏教だけのお話ではありませんので「仏教以前の話」のカテゴリーとして投稿させて頂きますね。
- 死後の世界の事を知りたい。
- なぜ私たちはこの世に生きているのか知りたい。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
類友の世界。
六道輪廻
仏教には「六道輪廻」の思想があります。
私たちは生前の生き方によって死後に向かう世界が決定する、というのですね。
簡単に説明をしますと、
地獄とは極悪人が向かうところ。
餓鬼界とは欲張りな人が向かうところ
畜生界とは自分の欲望を満たすことだけを求めてきた人が向かうところ。
修羅界とは争いを好む人が向かうところ。
人間界とは私たちが今住んでいる世界。
天界とは徳を積んだ人が向かえる神々が住む世界。
といったところでしょうか。
死後、私たちは「解脱(さとり)」に到らなければ、この六つの世界に振り分けられる事になるそうです。
移行世界
これはあるスピリチュアルな活動をされている有名な方から直接聞いたのですが、死後の世界は「階層世界」で、私たちは死後「自分の心の状態(波長)にあった世界」に移行してしまう、というのです。
怒っている人は怒っている人ばかりの世界へ。
悲しんでばかりいる人は悲しんでいる人ばかりの世界へ。
明るい人は明るい人ばかりの世界に移行してしまうそうです。
つまり、死後の世界は「同じような人ばかり」の世界なんだという事です。
『類は友を呼ぶ』というやつですね。
そしてこの階層は、ものすごく分かれているんだとか……。
しかしこれは、よくよく考えてみれば、先の「六道輪廻」の話と同じと言えるのではないでしょうか……。
自分の状態に気づきにくい。
死後の世界は「同じような人ばかり」だとお話しました。
周りにいる人が同じような人ばかりだと、大きな問題があるのです。
それは「自分の状態に気づきにくい」という事です。
この世でもよく似た人たちは集まっていますよね。
噂話が好きな人は噂話が好きな人同士で集まっています。
人の噂話ばかりをしている人達は、それが「当たり前」過ぎて、自分が噂話ばかりを話している事に気づかずにいたりしますよね……。
この場合「ああ、あの人たちはいつも悪口ばかり言い合ってるな」と気づけるのは「客観的な立場にいる人」、という事になります。
そしてそれこそが、この世(現世)がある理由なのだ、というのです。
ちょっと補足:波動の話
この世界には「同じ波長は引き寄せ合う」という法則があるそうです。
下の図をご覧下さい。
同じ波長を持つ音叉は、一方を鳴らすと、触れていなくても、もう一方を鳴らします。
これを「共振現象」といいます。
世間には「類は友を呼ぶ」と言うコトバがありますが、よくよく世間を見渡すと、人間関係も「共振現象」と言えると思いませんでしょうか。
学校や職場、地域でも、よく似た人達が同じグループとして集まっているのを見かけます。
明るい人の周りには明るい人達が集まっているし、いつも噂話や悪口を言っている人の周りには、よく似た人相、雰囲気の人達が集まっています。
人も物も、それぞれ「波動」や「雰囲気」とよばれる電波のようなものを響かせあって、よく似た人や物と共鳴し合い、共に増幅しあっているようです。
ラジオは自分が合わせたチャンネルの番組を受信しますし、電話も自分の選んだ番号の相手を呼び出します。
合わさない番号やチャンネルの放送は流れて来ません。
テレビでも、ホラーが好きな人はホラー番組ばかりを。お笑いが好きな 人はお笑い番組ばかりを受信します。そうしてその世界に没頭しますし、観れば観るほどその世界は強化されていきます。
つまり「自分の周りにある人や物は、全て自分が呼んでいる」と言うことにるようです。
「自分が呼んでいるんですよ」のお話。
私は以前、テレビで霊能者として活躍されている方にこのようにお聞きしました。
「よく霊をお祓いする、っていうじゃないですか。でもね、お祓いしても意味がないんです。なぜなら、その人(憑いていると言っている本人)が呼んでいるんだから……。」
「憑いている霊にね『なんでこの人に憑いているんですか』って聞くと『だってこの人が呼んだから』って言うんだよ。」
「その人が『さみしい』って波動を出していると、同じように『さみしい』霊が集まってくるし『悲しい』って思っていると、同じように『悲しい』って思っている霊が集まってくるんだよ。」
「結局、自分が呼んでるの。自分の出している波長を変えなきゃ、いくら祓っても変わらないんだよ。」
私自身がこうした能力を持っていないので、聞かせて頂いたお話をそのまま共有するしかないのですが……これは、ちょっと考えさせられるお話ではないでしょうか……。
現世の話
この世はリーラ(神の遊び場)
インドのヒンズー教では、この世は「リーラ(神の遊び場)」であると言います。
この世はとても特別な場所であり、私たちの人生は「神の上映する劇場のようなもの」であるというのです。
それは、死後の世界が「同じような人ばかりの世界」なのに対し、この世は「いろいろな波長の人が一同に集まれる特別な場所」だからなのだ、というのです。
餓鬼のような人も、修羅のような人も、天使のような人も、この世では「一堂に会する(同じ場所に住む)」事ができるというのですね。
そして当然、そんなにいろいろな種類の人達が集まったのなら、そこには波瀾万丈のドラマが生まれていきます。
映画はなぜ面白いのか
映画がなぜ面白いか、といえば、さまざまな性格の登場人物がいて、笑いあり、涙あり、そこに波瀾万丈なドラマが生まれるからですよね。
「善人しか出てこない映画」も「悪人しか出てこない映画」も、物語としては成立しなさそうです。
すぐに人々に飽きられてしまいそうです。
向こうの世界では「同じような人ばかり」でドラマが生まれないので、天界の神々でさえもこの世に生まれてくることを望むのだ、というのです。
例えば「愛を知りたい」と思った時、私達は単純に「愛に溢れた環境」を望むのではないでしょうか。
しかし却って「愛に溢れた場所」では、愛があることが当たり前過ぎて「愛に気づけない」という事もあるかもしれません。
それよりも過酷な環境で他者と傷つけあう中で「痛みの中から愛の深さを知る」という体験の方が、より深い愛を知る事になるかもしれないのです。
つまり、天界では学べない種類の「愛」がこの世界では学べる、といった事なのですね。
そうして学ぶべき事を学び終えた存在から、この世界を卒業していくらしいのです。
それまでは何度も何度も、自らも望み、生まれ変わり、神の劇場「リーラ」に配役をされていくそうです。縁がある魂同士は「今度は私がお母さん役」「今度は私は友人役」と役割を交代しながら共に卒業公演をめざして進んでいくそうですよ。
「無量寿経(むりょうじゅきょう)」というお経には「この世で十日十夜の間、善行を積む事は、仏の世界で千年間にわたって修行をする事より優れている」と説かれているそうです。
それは、向こうの世界では千年経っても学べない事を、この世界では学ぶ事ができ、魂を成長させていく事ができるから、と言うことなのかもしれませんね……。
中編に続く……。