おしゃかさまが説かなかったこと。(前編)
今回は、おしゃかさまが「見えない世界の話」に対してどのように対応しておられたかを通じて、おしゃかさまが説いたことと、説かなかった事についてお伝えしたいと思うのです。
このお話を知って頂く事によって、おしゃかさまがどんな事を重要だと思っていたのかを知って頂けるのではないかと思うのす。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
不思議な世界の話。
おしゃかさまは憶測でしか語れないような「形而上学的な問題」については議論する事を禁じていたそうです。
形而上学的な問題とは、例えば「神さまはいるのか?」といったような問題につて、ですね。
不思議な話は確かめられない。
形而上学的な問題、というと難しいと思うので、分かりやすくここからは「不思議な話」としましょう。
不思議な話を好きな人って、たくさんいますよね。
テレビでもそんな番組が多いのは、視聴率がとれるからなのでしょうね。
書店に行っても「精神世界系の本」は大人気です。
宗教書のコーナーにも、そんな本はあります。
しかし、その内容は……といえば、それぞれの人がそれぞれの説を唱えていて……ときには同じ事を言っていたり、はたまた全く違う話をしていたりと……さまざまです。
その中でどの説が正しいかは、見えない世界の話だけに「確認する事ができない」というのが本当の所なのではないでしょうか……。
おしゃかさまがまず、形而上学的な問題を議論する事を禁じたのは、答えの出ない問題であり、時に争いを生み、自分の意見に固着し、とても「無意味」で「時間の無駄である」と思っていたからなんだそうです。
不思議な能力と悟り。
それでも私にだって「知りたいこと」はたくさんあります。
「死後の世界はどうなっているのか」
「神さまや仏さまは本当にいるのか」等々……。
言い出したらキリがありがありません。
少なくとも私の場合、お坊さんになりたての頃は、そうした事を知る事が「悟り」だと思っていました。
この世の「一切の現象の真実を知る能力」……それこそが「悟り」であると思っていたのですね……。
なぜなら悟りを開くと「六神通」といって「さまざまな超能力を得る事ができる」と経典に書いてあるからです。
だからこそ霊能者さんを見れば「自分より真実に近いのかな?」とその言動に注意を向けてきたくらいでした。
時に、霊能者さんの中の「ちょっと変わった人達」が言っているような話でさえも「私が今、理解出来ないのは、もしかしてまだ悟っていないからかもしれないな……」と考える事があるくらいでした。
ここらへんがあいまいだからこそ、カルト宗教による洗脳なんて事件が起こってしまうのでしょうね……。
今なら「悟りの『体験』をした人くらいはいくらでもいるし、性格の悪いのはいくらでもいる……。そんな人にはついていく必要は無し」
「悟りと解脱は違う」
と、思えるのですが……(笑)
その頃の私にはわかりませんでした。
おしゃかさまの教え
形而上学的な問題よりも大事なこと。
おしゃかさまのお弟子さんの中にも形而上学的な問題を知りたいと思った方はいたようです。
経典にはそうしたお弟子さんとの会話も残っています。
ある日、午後の瞑想を終えてから、マールンキャプッタはブッダの許へ行き、師に挨拶をして、その傍らに坐り尋ねた。
「師よ、私は瞑想中に、以下の疑問を抱きました。
(1)宇宙は永遠か、(2)否か、
(3) 宇宙は有限か、(4)無限か、
(5)魂と肉体は同一か、 (6)否か、
(7)ブッダは死後、存在するか、(8)否か、
(9)ブッダは死後、同時に存在もし、存在もしないか、
(10)それともブッダは死後、同時に存在もせず、存在しないこともしないか。
しかしブッダは、私の疑問に答えて下さらず、なおざりにされます。私は、師の態度が意に満ちませんし、よいとは思いません。
ブッダがこれらの問題を説明して下さるのなら、私は師の許で修行を続けます。説明していただけないのなら、私は別な師を求めて去ります。もし師が、宇宙は永遠である、とご存じなら、私にそう説明して下さい。もし師が、宇宙は永遠ではない、とご存じなら、そうおっしゃって下さい。
『ブッタが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫 p49~p50
もし師が、宇宙は永遠なのかそうでないのかをご存じないのなら、〈私は知らない、
私にはわからない〉とはっきりとおっしゃって下さい」
こんなマールンキャプッタさんに対して、おしゃかさまは以下のようにご返答なさいます。
「マールンキャプッタよ、私は今までに「私の許で修行をしなさい。こうした問題
『ブッタが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫 p50~p51
を説明してあげよう」と言ったことがあるか」
「師よ、ありません」
「ではマールンキャプッタよ、そなたは今までに「ブッダよ、私は師の許で修行を
します。師よ、こうした問題を説明して下さい」と言ったことがあるか」
「師よ、ありません」
「マールンキャプッタよ、今でも私は「私の許で修行をしなさい。こうした問題を
説明してあげよう」とは言わない。そなたも「ブッダよ、私は師の許で修行をします。
師よ、こうした問題を説明して下さい」と私には言っていない。だとすれば、誰が誰
を拒否するのか。
マールンキャプッタよ、もし誰かが「私は、ブッダがこうした問題を説明して下さ
らなければ、ブッダの許で修行しません」と言うならば、彼は問題を説明してもらえ
ずに死ぬことになるだろう」
そしてここでブッタは、有名な「毒矢の譬え」をお話されます。
この譬えは、以前のブログでも紹介させて頂きましたが、
ここで改めて本より引用してみますね。
「マールンキャプッタよ、ここに毒矢に射られた一人の人がいるとしよう。そのとき、彼の友だちや親族が、急いで彼を医者の許に連れて行った。
ところが彼が 「私を射ったのは誰か? カーストは何で、何という名前で、どんな家系で、身長はどれくらいか? どんな弓と弦で射ったのか、矢羽根、矢尻はどんなものか? それがわからない間は、この矢を抜いてはならない」と言い張ったら、どうなるだろう。彼はその答えを得る前に死んでしまうだろう。
マールンキャプッタよ、それと同じく、もしある人が「私は、ブッダが宇宙は永遠
か否か、といった問題を説明して下さるまでは、ブッダの許で修行しません」と言っ
たら、彼は問題の解決を得る前に死ぬであろう」
そこでブッダはマールンキャプッタに、そうした問題は修行とは無関係であること
を説明した。
「宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、
死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。私が教えているのは、この生
におけるそうした苦しみの「消滅」である。
それゆえにマールンキャプッタよ、私が説明したことは説明されたこととして、説明しなかったことは説明されなかったこととして受け止めるがよい。マールンキャプッタよ、私は、宇宙が有限か無限か、といった問題は説明しなかっ
『ブッタが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫 p51~p53
た。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明しなかったのかというと、それは無益であ
り、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繋がらないから
である。それゆえに私は説明しなかったのである
如何でしょうか。
おしゃかさまは「不思議な話の答えを知る事なんて、悟りには一切関係ない」と断言しています。
おしゃさかまは最初、厳しい修行を果たし、成功したのですが、不思議な力を得るような境地には到達したものの、完全なる「苦の克服」(解脱)には到れなかったようなのです。
自分の悟りの境地に満足できなかったのですね。
そこで伝承によれば「自身の心を観察し続ける瞑想(ヴィパッサナー瞑想)」に修行を切り変える事によって、その結果「完全なる悟りの境地(涅槃)」に到ったようなのです。
だからこそおしゃかさまは自身の経験からも、特別な事が分かったり、特別な能力を身につける事より「目の前にある人生の苦しみをなくす事の方が急務ではないですか」とおっしゃっているのですね。
ちなみにヴィパッサナー瞑想は、最近ではマインドフルネスという名前で、世界中の大企業などでも採用されているような瞑想法です。
後編に続く……。