形として拝むか、拝まないか。それが問題だ。(仏教以前③前編)
前回のブログで、無限の話が出てきましたね。
今回は、人類が「無限」を知る為に編み出した、ある方法についてお話をさせて頂きます。
- なぜ宗教には神像や仏像があるのか疑問な方。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
名前と形を与える。
無限を知りたい。
昔の修行者たちは「無限」を知る事が「すべてを悟ることになる」と考えていたので「無限」を悟ろう、と一生懸命修行しました。
しかしこの方法は、悟りを開いたインドの聖者さま曰く「たいそう難しい」道なんだそうです。センスがなければ誰でも成功できる道ではないんだとか……。
ためしに頭の中で「無限」を想像してみて下さい。
本当はこうなれたら理想なのだけれど……。
無限との一体感的な……。
しかし現実は難しい……。
なぜなら、私達には既に、体という「限定」があるので「無限というものが想像しにくい」そうなんです……。
苦行者といって、インドには徹底的に体を痛めつけて「悟り」に到ろう、とする人たちが今でもいますが、これも体の限界を超えて無限にいたろうとしていると聞いたことがあります。。
形を通じて拝む。
あるインドの聖者はこんな事を言っています。
「人は、人の形にしか神を想像できない。もし象が神を想像するなら象の形に。魚が神を想像するとしたら魚の形に神を想像するだろう。」と。
昔の人たちは、大自然のあらゆる要素に「名前と形をつけて」拝もうとしました。
例えば、こんな形に……。
あらゆる自然界の要素を「擬人化(ぎじんか)」して拝もうとしたのですね。
この試みは、無限なる神さまにも実行されました。
無限は、無限のままでは拝む事ができません。
大自然のあらゆる要素も、そのままでは拝む事が難しいです。
心を向ける「対象」があった方が心を向けやすいですよね。
昔の人たちは形という「限定」を通じて、その背後にある「無限」を祈ろうとしたのですね。
空気さま、の話
例えば、私達は空気に生かされていますよね。
では「空気に感謝してください」と言われたら、どうでしょうか。
拝んで下さい、と言われても……。
空気って、どちらの方向にもありますから、どこを向いて拝んでよいやら……。
ちょっと困ってしまいますよね(笑)……。
でもここで、スーパーの袋を取り出して、空気を閉じ込めてみましょう。
はい。「空気さま」。
これならどうでしょうか?
これなら拝めますよね。
拝む方向が分かりますよね(袋に向かえばいいのですから)。
他にも例えば、お墓や、仏壇にあるお位牌や故人の写真も、それ自体が「亡くなった人」ではありません。
でも私たちは「心を向ける方向がないと、拝む事も難しい」ようなのです。
ですからお墓や位牌、故人の写真も「あった方が拝みやすい」という事が起きます。
どうやら人は「具体的な形があった方が、お祈りしやすい」ようなのですね。
後半に続く……。