「信じる」ことと「信じない」こと。(仏教以前⑧後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
信じること、信じないこと、それぞれの弊害。
主体性を失う。
信仰の世界では時に「疑ってはいけない。どうせ人間には分からない事なのだから。信じるのです」といったりします。
そんな事を言うから、いろんな事が「あいまい」にされたまま「思考停止」にされてしまう人が生まれてしまうんじゃないかな……と私なんかは思ってしまうのですが……。
「信じる事によって強くなれる」「パワーが出る」といった事はあるでしょうから、その全てが悪いとは思いませんが、そうやって指導された結果「主体性を失ってしまった生き方」になってしまっている人って結構いるのではないかと思うのです。
いわゆる「マインドコントロール状態」ですよね……。
もし宗教がそうした「主体性を失わせる思考」を生む土台を持っているのだとしたら……それはある意味「宗教が持つ悪い部分」と言えるのではないかと私は思うのです。
さらに、宗教でも健康法でも儲け話でも「相手に騙された」と思ったとき、相手に対してものすごい怒りの心を持つ方がいらっしゃいますよね。
もちろんその気持ちは分かります。
でもそれって「自分で選んだ」事でもあるんですよね……。
と、いう事は「自己責任」という側面もある、という事です。
私もだまされたら「ちくしょー」と思うでしょうから、偉そうな事は言えないんですけれど……。
それにしても「全て相手が悪い」と言うような人って、つまりそれは「自分で責任を負わず、相手に責任を委ねている」という事ですよね……。
つまりそれは「決定権を相手に委ねている」という証拠であるともいえます。
それって、信じる事の主体が「自分」にないと、これからも「相手にコントロールされるだけ」の人生になりかねないのではないでしょうか……。
常識を疑う。
「私は信じない」と言っている人も「何かを信じている」訳ですが、その信じている事が「本当に信じるに値する事なのか」は吟味する必要があると思うのです。
例えば「常識」ですよね。
常識といわれる事の中には「ちゃんと調べてはいないけれど、なんとなく信じている」という事が結構多いのではないかと思うのです。
世間が言っているから、テレビで言っていたから……信じる、選んでいる、という態度は、なかなか危険な行為だと思うのです。
マスコミによって「情報操作されている事がある」なんて話を聞く事もあるくらいですヨ。
それはもう充分に「信仰といわれるものと同じ」なのではではないかと私は思ってしまいます。
私たちはいつのまにか、そうやって「自分で考えること」を忘れて「何かに」決定権を委ねた人生を送っているのかもしれません。
そんな状態で、自分が知っている知識だけで「すべてを決断する」という行為は結構、傲慢で危険な行為なんじゃないかな~、と私は思うのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という詠もありますが、私たち人間が知っている事って限度があり、結局「何も知らない」というのが本当の所ではないかと思うのです……
自分で調べて選択する。
おしゃかさまの見解。
おしゃかさまは「信じる」という事について
どれだけりっぱな先生が言った事でも鵜呑みにせず、自ら確かめなさい。自分で確かめて『これは真実だ』と自分で確信した事だけ信じなさい
とおっしゃったそうです。
さらにはこのような信者さんとの問答も残っています。
おしゃかさま。
この村には、たくさんの修行者やお坊さん達が訪れます。
その人達は、自分の信じている教義だけを説明し、明確にしてくれますが、他の教義は軽視しています。
そのあとでまた別の修行者が来て、同じように自分の信じている教義を説明して明確にしていくのですが、その人も他の教義を軽視するんです。
おしゃかさま。私たちは「みんなりっぱなお坊さん」だと思っているんですよ。でもだからこそ「誰が本当の事を話していて、誰が間違っているのか」が分からなくて戸惑っているんです。
私たちはどうしたら良いのでしょうか?
村人さんたち。
あなたがたが疑い、悩むのは当然の事ですよね。
なぜならあなたたちは「当然疑うべき事を疑っている」のですから……。
村人さんたち。
人から聞いたこと、伝統、風のウワサに惑わされてはいけません。
お経、聖典の権威、理論や推測、外観、思い込み、可能性、「これはお師匠様の言った事だから」といった考えにも惑わされてはいけません。
そうではなくて、あなたたちが自分自身で忌まわしくて、間違っていて「悪いんじゃないか」と判断した事ならばそれを捨てなさい。
あなたたちが自分自身で正しくてよいと判断した事ならばそれに従いなさい。
参考文献『ブッタが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫
おしゃかさまはどんな事も「あいまいに何かを信じたままにしている」のではなく「自分でちゃんと確かめて選択しなさい」とおっしゃっているのですね。
これは主導権を「常に自分が持ち続ける」という事でもあります。
誰かがいった事を鵜呑みにして信じるのではなく「自分で調べて、確かめられた事を人生で選択していく」のです。
おしゃかさまは「全能の神」の存在に対しては何も答えなかったそうです。
それは即「全能の神」の存在を否定している、という訳ではありません。
「調べても確信しきれない事は、ほおっておきなさい」という態度だったようです。
おしゃさまの教えは本来「確認すれば納得出来る事だけを説く」ものであり、それを確実に積み重ねていけばおのずと「解脱に至れるのですよ。」といったものだったようです。
大地が硬い事を確信できれば、私たちは安心して大地を「踏みしめる」事ができます。
自ら確かめ、納得した事だけをおしゃかさまは「信じれること」といったのでした。
まとめ
如何でしたでしょうか。
私がカウンセリングを学んだとき、カウンセリングの先生は「自由には責任が付きまとう」と言っていました。
自分で責任を追う覚悟が出来たとき、はじめて人は「自由になれる」というのです。
確かに、自分で決断する事って勇気がいりますよね。
でも、宗教でも健康法でも儲け話でも「他人に言われたまま」の事を信じているだけでは、いつまでたっても「人のいいなり」です。
その結果「騙された」としても、騙した相手を非難して終わるだけなら、たぶんきっとその人は「又同じ事を繰り返す」のではないでしょうか。
このループから抜け出すポイントは「自分でちゃんと確かめて、自分で決断して生きる事」のようです。
本当に「バランスが良い人」というのは、何でも鵜呑みにせず、かつ何でも否定せず、状況をちゃんと分析して自分の目で確認し、答えをだせる人ではないでしょうか。
おしゃかさまがおっしゃった「自ら確かめて確信した事だけを信じなさい」という言葉には、こうしていつでも「中立」「中道」を保ち、疑いすぎもせず、かつ信じすぎもせず、自ら確認し「地に足をつけて生きる」という思いが込められているのではないかと私は思うのです。
信じすぎず……疑いすぎず……両足でバランス良く、前に向かってすすんで生きたいものです。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝