「信じる」ことと「信じない」こと。(仏教以前⑧前編)
今回は信じる、という事と、信じない、という事について、私の思うところをお話させて頂きたいと思うのです。
特に「何に対して」信じるとか、信じないの話なのか……という限定はしていないのですが、例えば宗教だったり、健康法だったり、儲け話だったり……そんな勧誘を受けたときの話……くらいの前提でお読み頂けたら幸いです。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
それぞれの言葉の印象。
「信じる」という言葉。
「信じる」って言葉自体に、何か「不安定」なものを感じる人って結構いるんじゃないかと思うのです。
それは「信じる」という言葉自体に「あいまいさ」が含まれているからではないでしょうか……。
例えば「私は、私の目の前に、空気がある事を信じます」とはいいませんよね。
それに対して「神さま、仏さま」といった対象や、宗教の教儀、健康法、占い、儲け話などを「信じる」といった場合には、自分ではその全容を確認しきる事はできないので「何かを越えて信用する」といった、ある種の「思考の飛躍」がついてくるように私は思うんです。
故に「信じる」という言葉の「受け取り方や言い方」によっては、なにか「フワッと」した印象を受けることがあるように感じます。
しかし例えば「私は信じた。」といったような「断言的なニュアンス」が言葉に含まれてくると、とたんに「強さ」や「強烈さ」みたいな印象を受け取るように感じます。
「人は信じるからこそ強くなれる」なんて言葉をきいた事がありますが、何かを強烈に「信じられた」人からは「理屈を越えてしまったが故の」強さ、強引さ、ひとによっては「潔さ」みたいなものさえ感じる事があるのではないかと思うのです。
以前お話した事ではありますが、ヒンドゥー教や仏教の世界では、悟りに到る道はたくさんあるといわれています。
仏教でも、おしゃかさまは「対機説法」といって「信者さん一人一人にあう修行方法を伝えて説法した」と言われていますが「(何かを信じて)信仰するという修行方法が合っている人もいる」ようで、それは悟りを開いた人達も認めています。
「信じない」という言葉。
ではそれに対して「信じない」という言葉にはどのような印象をお持ちになるでしょうか。
私は「信じる」という言葉がどこか「オープンな」イメージがあるのに対して「信じない」という言葉には何か「閉鎖的」「守り」といった印象を受けます。
もちろんこれは悪いイメージではありません。
私たちは誰だって騙されたくはありませんからね。
今あるもので既に生きていられるのなら「確かではないもの」を、自分の人生にわざわざ受け入れるストレスなんて必要ないと思いますし、何でも「選んで信じる」事は、いたって普通な事ですよね。
ただ、そう考えてみると「信じない」と言っている人にも、信じている事があるという事がわかります。
それは「自分が元から信じている事」だったり「信じない(でも大丈夫という事を)を信じている」という事だったり……。
だからこそ、そういう方は、ある時、自分が納得すると「これは宗教じゃないのよ」とか言いながら宗教の熱心な信者さんになったり……なんて事があったりします。
つまりそういう方は「自分の信じてる事を信じている」といえるのかもしれません……。
信じるも信じないも同じ、という観点。
私たちはすべからく「何かを信じて」生きています。
「空気を吸っても大丈夫」な事。「大地を踏みしめても大丈夫」な事。「出された食事を食べても死なない」事、等々……。
そんな事を信じていなければ、安心して日常生活を送る事もできません。
と、いう事は、私たちが何かを信じる事の根底には「安心でいたいという心がある」という事になるのではないでしょうか……。
何かを信じようとする人は、新しい情報を得る事によって、より豊かになり「安心して生きていける事」を選ぼうとします。
何かを信じようとしない人は、よけいなものを自分の人生に受け入れない事で「安心して生きていけるフィールド」を確保しようとします。
つまり何かを「信じる」人も「信じない」人も「安心を求めようとする」という意味では同じになります。
同じ想いが「違う形として顕れているだけ」という事ですね。
後半に続く……。