ブレイクブログ「答えは一つじゃない。」
みなさん、こんにちは。
今回はブレイクブログとして「答えは一つじゃない」というお話をさせて頂きます。
この話は先に言っておくと、結構ヒドイ話です……(笑)
しかし私は、この体験によって悩みが「劇的に」減りました。
人生も変わりました。
お坊さんとしての考え方の根幹もここにあるように思えます。
まぁ、ヒドイ話ではあるんですけれど……(笑)
この話が誰かのお役にたって下さったとしたら……幸いです。
くてい拝
- 学校生活で周りと比べられて苦しんでいる方。
- いま、行き詰まりを感じている方。
私の根底にある感覚。
劣等生だった私。
これは私が、中学生の時のお話です。
当時の私は、全く勉強が好きではありませんでした。
テストの時「俺、ぜんぜん勉強してこなかったよ。」といいながらも、ちゃんと勉強してきてる人っていますよね。
しかし私の場合は、テスト範囲を知るのが「テスト当日の朝」でした。
これは本当の話です(笑)
もちろん授業中にテスト範囲って発表されたりすると思うんですが、授業中はとにかく眠たくて…机の上でゴロゴロしていましたし……(笑)
テスト当日(テストとテストの間の)休み時間に範囲を聞く→今からは無理だと悟る→あきらめる……。という具合でした(笑)
なかなかでしょ?
なかなかだったんです(笑)
「たった一つの答えが分からない」苦しみ。
学校の勉強は全く好きではなかったので「成績が悪かった事」に関しては苦しくはなかったのですが、学校って「勉強や運動が出来る子、大人の言いつけをよく守れるのが、よい子」みたいな、空気がありますよね…。
私もそうした「価値観」の中でしか「自分を判断する事」を学んでこなかったので、求められる基準からことごとく外れる自分には「苦しみ」や「罪悪感」や「劣等感」しか感じられませんでした。
求められる「たった一つの答え」が分からない……。
周りが求めてくる形に、合わせることが出来ない……。
その結果「自信」や「やる気」を失ない…。ただ毎日を「何となく」やっぱり授業中はゴロゴロと…過ごすに至っていました。
しかし、そんな私にすごい転機が訪れます。
人生観を、根こそぎ変えてしまうような大事件です!!
人生を揺るがす、大事件発生…。
ある日、国語の授業で作文の宿題が出されました。題名は忘れましたが、嫌いな宿題でした(笑)
でも、私の、それからの人生を変えてしまうその瞬間に、先生はこう言ったんです。
「みなさん、明日までに作文の宿題を提出する事~。忘れたらあかんよ~。でも、もしこの中で作文が書けないと思っている人がいたら『私は作文が書けない』という題名で書いてきたらいいからね~。」と。
この時、私の目から大量のウロコが流れ落ちました。
この時、私は学んだのです。
「なるほど。答えって一つじゃないんだ!」
「出来なかったら、出来ないことを武器にしたらええんや!」と…。
たぶん先生が言いたかった事と、微妙にズレているとは思うのですが……(笑)
でも私にしてみれば「人生が大反転」してしまったかのような、目からウロコ的な、大事件だったのでした…。
なぜなら、いままで親や学校や先生から「たった一つしか正解がない」と聞いていたのが「そうじゃない答えがあっていいんだ」って事に気づいた瞬間だったのですから…。
激変した、私。
それからの私は変わりました!!何が変わったって、やっぱり授業中はゴロゴロしてるんですが……。
テストともなると、俄然やる気を発揮します。
どのようにやる気を発揮するかというと……。
「如何にしてこの危機を切り抜けるか、どうやってこの場を誤魔化そうかと、真剣にアイデァを出す」という事です。
「いや、勉強しろよ!」というツッコミが聞こえてきそうですが……(笑)
もちろんテストの日の鬱々した気持ちや「当日のあせり」はあるんですが……。
なんというか途中から「腹をくくる」というか……。
なんなら「どうせなら解答で先生を笑わせてやろう」くらいの……。
ある時点で「もう今から悩んでも仕方ないし、これからどうやって誤魔化すか……乗り切るか考えよう……!」とすぐに気持ちを切り替える事が出来るようになりました。
例えば、
○解答欄を、とにかくなんでもいいから埋める。(これは基本、いや、もはや、礼儀ですね。)
○テスト用紙の余白部分にも、積極的に介入(知っている単語を書く、それっぽい数式を書く、知っている年号を書く、知っている漢字で埋める、自分で簡単な問題を書いて、回答に〇をしておく、等)
○裏の白紙部分は、とにかく文字で埋める。(例えば、もう先に反省文を書いておく、とか、知っている単語をA,B,Cから書いていく、とか、日記、感想文等)
〇時には「先生は、こんなに難しい問題を出して間違っているんじゃないでしょうか……」と先生に問題提起してみる……。
この「テスト積極的介入法」によって、私の中にあった劣等感は、どんどん減っていきました。
もちろんこのあと追試……とかもあったと記憶していますが、毎回「やりきった感」(何の?)があったので、私自身に苦痛はありませんでした。
担当していた先生方からもこっぴどく怒られた記憶はありません……。
劣等感もなくなりました。
なんだかテストの日も「違う意味で自分の実力を試せる(大喜利風)ようになった」ので楽しくなってきていました……。
こんな私に付き合ってくれていた先生方がすばらしかったな……と今なら心から思えます……。
そんな事が……。
この話には続きがあります。
それから十数年たったある日、お寺の師匠から呼び出しがありました。
呼び出された内容はたいした事がなかったんですが、帰り際に「くてい。オマエ、高校の時大概やったらしいな」と言われたんです。
私はいわゆる不良、という訳でもなかったので、師匠のいわんとする事がわかりませんでした……。
すると「オマエ、高校の時、試験でまともに答えを書いたことなかったらしいじゃないか。」と言われたんです。ハッとしました(笑)さすがにそこは……。
「オマエ、試験の度に変わった解答ばっかり書くもんだから、試験の度に「今回はくていくんは解答用紙に何て書いてきたんですか?」と、オマエの試験用紙が職員室中を廻っていたらしいぞ」と……。
「え~~~。そんな事、ある⁈(笑)」
師匠は教育関係仕事を長年していたのですが、私の出身高校で事務をしていた人が教え子さんだったらしく、たまたま外で出会い、私の話になったそうなんです。
どうりで私が授業を受けたことがない先生でも「くていくん、くていくん」と私の名前を知っていたんですよね……。不思議で仕方なかったんですよ……。
ただ「何で事務局の方までご存じだったのか……」
職員室は二階で、事務局は一階だったんですよ……。
私のバカさは校内全域に広がっていた可能性があります……(笑)
まとめ
如何でしたでしょうか。
この話は、私がどう考えてもおかしいです……。
学校のテストなんですから、テスト勉強もちゃんとして「求められる答えを予測して解答する」のは同然ですよね。
ただ私はこの体験から、
- テストの答えは一つでも、人生の答えってたくさんあるんじゃないか。
- 答えを答えるだけが答えじゃないんじゃないか……。
- 学校の評価と自分の価値は一緒ではない。
という事を学んだ気がします。
ある意味、私の個性を尊重して下さった当時の先生方(全教科!)に感謝をせねばならないと思います……。この場を借りて、本当にアリガトウゴザイマス。
しかしこうした体験があったからこそ「〇〇だけが正しい」とする宗教や仏教に対しても常に鵜呑みに出来ず(せず、ではなく、できず)「答えはそもそも一つじゃないんじゃないか?」という視点に立つのが私の「普通の感覚」になった、なれたんだと思います……。
組織に所属するものとしてはどこに行ってもはみ出す……。
探求者としては「バカだから良かったかもな-」とも思える……私の原点の感覚……。
決して褒められた話ではないですが、私の背景を知って頂く事で、私が「これ仏」で表現したい事が少しでも伝わってくれたらいいなー、親しみも(できたら)感じてくれたらいいなーと思い投稿させて頂きました。
ブレイクブログはあくまで本編を書くのに時間がかかるから、その「穴埋め」くらいの気持ちで軽く書くつもりだったんですが……製作にまたまた時間をかけてしましました……(笑)
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝