【これ仏流】信仰との向き合い方(仏教以前⑦前編)
くていさん。
くていさんは以前「無限や真理」について話をしてくれました。
「自分の見解を超えるのだ。」といった話もしてくれました。
と、いう事は、どこかの宗教・宗派に所属してしまったら、何らかの見解を持ってしまうことになりますよね?
それならば最初から、どこかの宗教・宗派に所属する事をしない方がよいのでしょうか?
うさおさん。
そんな事はないですよ。
ご縁があったり、好きな宗教、宗派に所属される事は良いことだと思います。
しかし同時に大切な考え方がある、とも私は思っているのです。
では今回は、その話をさせて頂きましょう。
ぜひ、よろしくお願いいたします!
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
手放しながら前に進んでいく。
自分の見解を越えていく。
以前、ブログの中で私は、禅のこんな言葉を紹介致しました。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん。
「臨済録」
この言葉には「一度つかんだモノを離さなければ、真の悟り(解脱)を得ることはできない。本当の悟り(解脱)とは全てを手放した先にある。」といったような意味があります。
同じような内容を伝えた、おしゃかさまの「象の喩え」もあります。
こちらも以前のブログでご紹介した事があるのですが、分かりやすいと思いますので、もう一度紹介しますね。
昔、ある場所に、ある王さまがいました。
その王さまは、家臣を呼んで、
「今から、市内に住んでいる、生まれながらに目の不自由な人達をすべて一つのところに集めて「象を象とは知らせずに」象に触れさせなさい。」
と命令して、それを触ったらどのように思うか、めいめいに答えさせました。
象の頭に触れてみた人は次のように答えました。
「王さま。これは瓶(かめ)のようなものでございます。」と。
また、象の耳に触れてみた人は「これは扇(おうぎ)のようなものでございます。」と答えました。
同様に象の牙に触れてみた盲人は「剣のようだ」と答えました。
鼻をなでた人は「ホースののようだ」と答え、体に触れてみた人は「樽(たる)のようだ」と答えました。
脚に触れてみた人は「柱のようだ」と答え、背に触れてみた人は「板のようだ」と答えました。
尾に触れてみた人「ムチのようだ」と答え、尾端に触れてみた人は「ホウキのようだ」と答えました。
そして、かれらは互いに拳をもって争いを始めたのでした。
その姿を観て王さまは家臣にこういいました。
「象とはあんなものでも、こんなものではない。象は、あのようなもの (全体)だ。」と。
それと同様に、諸の宗派に所属する修行者たちは
「自分の見解だけが正しい」
と主張して……、口論をして、論争をして、議論におちいって、鋭い舌鋒をもって、お互いに他人を突き合いながら日を送っているのですよ。
この喩えの言わんとする所も、ものすごく分かりやすいと思うのです。
私たちは自分の信じる宗教、宗派を「これが真理である」と掴み、他者が唱える宗教、宗派を「劣っている」と非難してしまいます。
しかしおしゃかさまは「それは象の一端を掴んでいるだけであり、象(真理の全体)とはその全てを包括したものなのだよ」とおっしゃっているのです。
そうなのですよね。この喩えでいうのならば、まずは象の一端に触れれた事は「成功」なのではないでしょうか。真理の一端に触れる事が出来たのですから……。
ただし問題なのは「自分の掴んでいるものがすべてだと思ってしまった」所、ですよね……。
そうなってくると人は「近視眼的で妄信的になってしまうおそれがある」という事なのではないでしょうか……。
形になったものは不完全。
禅には「不立文字」という言葉がありますが、これは「真理は言葉では言い表せないですよ」といったような意味を持っています。
以前、無限を「限定を通じて掴む」といった話をさせて頂きましたが、
「無限なる神」でも心でも「形のないもの」は、そのままでは人は認識することができません。
その為に私たちは「形のないもの」を一端、言葉や形にしてから受け止めようとするのですが、今度はその「出来てしまった「形」に囚われてしまう」という事がしばしば起こってしまうのです……。
そして、そもそも形になっている時点で全てのものが「完ぺきではない」のですから、私たちはその「完ぺきではないもの」に対して執着してしまっている事になります……。
例えば「青」と言っても「あなたの思い浮かべる青」と「わたしの思い浮かべる青」はきっと違うでしょう……。
ここで大切な事は「そもそも形になったものは不完全である」と分かった上で言葉や形を「利用する」という事なのではないでしょうか……。
そして同じ事は宗教・宗派に対してもいえるのではないかと私は思うのです。
宗教・宗派もそれぞれの理論は完ぺきなんだろうと思います。
しかしそれぞれが「万能」ではない。
もし「万能」であるならば、世の中に、こんなにたくさんの種類の教えが存在する事はないでしょうからね……。
お互いに補完し合う。
ヒンドゥー教の聖者であるヴィヴェーカナンダさまは「普遍宗教」を説きました。
真理は一つであり、すべての宗教は一つの真理の、さまざまな顕れである、というのです。
そして「真理が一つであるのならば、なぜそこに『さまざまな宗教・宗派の顕れ』が存在するのか」という問いに対して、
「我々は、全ての人を「一つの思想」によって統一することはできないからである。」とおっしゃっています。
ヴィヴェーカナンダさまによれば「なぜ全ての人を『一つの思想』で統一できないのか」というと、それはこの世界が「多様性において存在しているから」であるというのです。
私たち人類の顔がすべて同じになる事がないように、この世界は「多様性」に生まれており、もし全人類が皆、同じになってしまう事ようながあったとしたらそれは「世界の崩壊の時である」とさえ言っています。
参考文献『普遍宗教への階梯 スワミ・ヴィヴェーカナンダ講演集』スワミ・ヴィヴェーカナンダ著 大野純一 訳 星雲社
完ぺきなバランスでは動かない。
ヴィヴェーカナンダさまが言う所の「もし全人類が皆、同じになってしまうような事があったとしたらそれは「世界の崩壊の時」である」という言葉はちょっと過激でおおげさなような気もしてしまいますが、私は以前、このような話をきいた事があるのです。
私がお世話になった整体師の先生から聞いた話です。その先生のお師匠様に当たられる方は、とてもとても有名な整体の先生でした。
ある時、その先生が患者さんの身体を「全く完ぺきに左右対称」に調整したそうです。
するとなにが起こったかというと……その患者さんは体が「全く動かなくなった」というのです。
私たちの体は皆、歪んでいて、そのちょっとしたひずみが元になってカクカクとバランスを取り続け、全体の動きになっていくのだ、というのですね。
私は専門家ではないからよくは分からないのですが、これはとても興味深い話だと思いました。
ヴィヴェーカナンダさまは「多様性の中の統一が宇宙の計画である。それは多様性が生の第一原則だからである。完璧なバランスはわれわれの崩壊である。」とおっしゃいましたが、確かに人間世界にも多様な人間がいて、いろいろな考え方の人達がいて、そのいびつさから物語が生まれ、世界が動きだす……、と言う事はいえるのかもしれません……。
そう考えると確かに世界は「多様性」であるからこそ「動きが生まれる」といえるのかもしれませんよね……。
なかなか面白い話だな、と思います。
宗教の多様性は神の救い。
さらにヴィヴェーカナンダさまは、なぜこの世にたくさんの宗教があるのか、というと、それは「すべてが神の摂理の中の異なる力の顕れであり、全て人類の幸福のために働いているからだ」というのです。
神さまが「さまざまな人々を救うために、あらゆる形で顕れてきている証拠だ」というのですね。
そして「それぞれの救い方に理想があり、その理想は壊されることはない」ともいっています。
確かにさまざまな宗教に「救いの理想の形」があり、そそれぞれに魅力を感じる人がいて、それぞれに合う人がいそうです。
この事をヴィヴェーカナンダさまは「宗教の違いとは矛盾ではなく、普遍的真理の相補作用なのだ」とおっしゃっています。
宗教の教えはそれぞれが相反するように見えるけれど、それは矛盾ではなく「足りない所をお互いに補い合っているのだ」というのです。
どうしても宗教・宗派のおしえは「それぞれが完ぺき」である事を主張する事なります。
しかしヴィヴェーカナンダさまのいうように「宗教は互いに相補的である」と互いに思える事で、他者には他者の救いの方法があり、お互いに「普遍的真理に向けて進む仲間なのだ」と思いあう事も出来るのではないでしょうか……。
参考文献『普遍宗教への階梯 スワミ・ヴィヴェーカナンダ講演集』スワミ・ヴィヴェーカナンダ著 大野純一 訳 星雲社
後半に続く……。