真理に到るさまざまな道。(仏教以前④後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいませ。
- なぜこの世界にはこんなにたくさんの宗教があるのか知りたい。
- 仏教についてこれから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
おしゃかさまの選んだ道
説かなかったこと
それでは、おしゃかさまが選んだ道を、まずは、おしゃかさまが「選ばなかった事」から考えてみたいと思うのです。
おしゃかさまは形而上学的な質問に関しては一切答えなかったそうです。
例えば、
- 宇宙は永遠か、否か。
- 宇宙は有限か無限か。
- 体と魂は一緒か否か。
- ブッタは死後、存在するか、否か。
などなど……。
参考文献『ブッダが説いたこと』岩波文庫 ワールポラ・ラーフラ著
『原始仏教』NHKブックス 中村元著
このような質問には無記、といって「無言」を貫かれ、そしてこのような譬え話をされそうです。
にゃん太さんが毒矢にうてれて苦しんでいるとします。
周りが心配して、にゃん太さんをお医者さんに連れて行ったら、にゃん太さんがこんな事を言い出しました。
この矢を打ったのは、ネコか、人間か?
金持ちか?庶民か?それともノラか?
胴は長いか短いか?毛艶やは良いか悪いか?
弓は国産か外国産か?新製品か旧製品か?
アマゾン?楽天?地元で購入?
それが分かるまではこの矢は抜きません……。
うぅう……。ド、毒が……。
このままでは、にゃん太さんは全てを知り得る前に死んでしまうでしょう。
このような問答はあまり意味がありません。
宇宙が有限か、無限か、といった問題にかかわらず、人生には生老病死の苦しみがあります。
私が教えているのはそうした苦しみの消滅なのです。
こうした質問は無益であり、修行に関わる本質的な問題では無く、故に苦しみの解決にはならないからです。
なぜ、おしゃかさまがこうした質問に答えなかったか、といえば、
おしゃかさまはあくまで「苦しみからの解放」を求められたので「このような問答は、解脱には全く必要が無い」と考えたからなんだそうです。
説いたことについて
さらにこんな話も残っています。
あるときおしゃかさまは広大な敷地の森に、お弟子さん達と滞在していました。
その時、おしゃかさまが落ちていた木の葉を数枚手に取り、弟子達にこんな質問をしたそうです。
あなた達に質問をします。
私の手の中にある木の葉の枚数と、森の中にある木の葉の枚数と、一体、どちらの方が多いでしょうか?
おしゃかさま。
それは、森の中の葉っぱの数の方が圧倒的に多いですよ!
そのとうりです。
それと同じく、私が教えているのは、私が知っていることのほんの一部にしか過ぎません。説かなかった事の方がはるかに多いのです。
なぜほとんどの事を説かないのかというと、ほとんどの話は解脱に到る為には役に立たないからです。
これらの話から推測できるのは、おしゃかさまが「死後の世界」や「全能の神」の存在を知っていたとしても(解脱には必要がないので)世間に明らかにする事はしなかった、という事です。
どうやらおしゃかさまは、探っても究極には答えがでないような話は
「真理の探究には全く必要の無いこと」と確信し、あえてお弟子さん達に説く事はしていなかったようですね。
特におしゃかさまがご存命の時代のインドでは、バラモンという司祭階級の人たちが「自分達は神さまに唯一繋がることが出来る人間で、それは血筋によって選ばれているのだ」と他者を見下していたり、修行者たちは自分達の信じている哲学や信仰を「自分は正しく、他者は間違っている」と競い合い、人びとは論争を繰り返していたようなのです。
「解脱(げだつ)」には「安らぎ」といった意味もあるのですが、おしゃかさまは神の存在や、不可思議な事を知りたい欲求を満足させる事より「そんな事より、目の前にある苦しみを解決する事の方が人生にとっては大切なのではないですか?」といったスタンスだったようです。
おしゃかさまは「新しい信仰」「新しい哲学」を説こうとされたのではなく、また否定されたのでもなく、ただただ「苦しみからの解放」こそを求められた、という事ですね。
ここはとても大事なポイントだと思います。
気づきの道
おしゃかさまは最初、苦行を始めましたが、途中で苦行が解脱には無益であることに気づき、菩提樹の下で静かに瞑想に入られ解脱に到りました。
その時に選んだ修行法が「気づきの瞑想(ヴィッパサナー瞑想)」であり、おしゃかさまはこの方法によって解脱に到った、と言われています。
おしゃかさまがお説きになった瞑想法には、サマタ瞑想とヴィッパサナー瞑想があります。
サマタ瞑想は何か特定の対象に集中する瞑想です。
深い集中力により、三昧という境地に到ります。
それに対し、ヴィッパサナー瞑想は心の状態に「気づき続ける」瞑想法となります。
次々に沸き続ける思考や感情に気づき、心を清めていく瞑想法となります。
おしゃかさまはサマタ瞑想をやり続けた結果、深い三昧を経験したようですがそれは求めていた境地とは違ったようです。
そこでヴィッパサナー瞑想に切り替えたところ、ついに解脱に到った、といわれています。
おしゃかさまの選んだ道を推理してみる。
おしゃかさまは「全能の神の存在」を説きませんでした。
なぜなら解脱に到る為に「全能の神の存在を知る必要はない」という理由からです。
インドのヒンドゥー教の聖者であるヴィヴェーカナンダさまは、ブッタの事を「ギャーナヨギ(哲学的探究)であり、カルマヨギ(奉仕の道)であった」と言っています。
ヴィヴェーカナンダさまの分類法に則って考えてみるならば、哲学的探究では「神」をたてませんし、実際おしゃかさまは形而上学的な話は説かなかった、といわれていますから(あくまでヒンドゥー教的な分け方ですが)おしゃかさまはヴィヴェーカナンダさまの言うように「神をたてずに真理を求める」立場であった、といえるのではないか、と推理する事もできます。
まとめ
如何でしたでしょうか。
人類が、真理、無限、全能の神を知る為に編み出していったさまざまな探究方法と、おしゃかさまが選んだ修行方法についご紹介をさせて頂きました。
こうして観てみると、世間にたくさんの宗教、宗派が存在する理由を矛盾無く受け入れる事も出来るのではないかと思うのです。
インドの聖者であるヴィヴェーカナンダさまは、人類が「多様性」であるが故に、さまざまの宗教、宗派が存在するのだが、それは人類にとって「必要なこと」であるとおっしゃています。
宗教の数が多ければ多いほど、より多くの人々が霊的になる機会を持てる機会が増える、というのです。
さらにヴィヴェーカナンダさまは、人々は宗教を好んでいない訳でも、求めていない訳でもなく、それぞれの人にあった道があり、自分に合った道を教え導いてくれる人に出会っていないだけだ、といいます。
かくして、多様性に富んだ人々の数だけ、宗教の数も多様となり、そこには当然、矛盾も生まれてきそうですが、ヴィヴェーカナンダさまは、それは矛盾ではなく「普遍的真理の相補作用なのだ」というのです。
それぞれの宗教は、普遍的真理の一部分を有し、偉大な真理は一つの思想によって限定されるようなものではなく、真理の「普遍性」を互いに補い合うものである、というのですね。
あらゆる宗教や思想が争い合うことなく、自分達の理想だけでは欠けてしまう所を他の宗教や思想の中に補い合い、人類すべてが仲良く、ともに真理に向かって進んでいける事を私も望みます。
いきとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝