真理に到るさまざまな道。(仏教以前④前編)
前々回のブログでは、真理、無限、全能の神、といった概念が、人びとの中から生み出されていったいきさつをお話させていただきました。
さらに前回のブログでは「無限に形を与える事により、無限を知ろうとした」というお話をさせて頂きました。
今回は、人類が、真理、無限、全能の神を知る為に編み出していった、さまざまな探究方法についてお話をさせて頂きます。
- なぜこの世界にはこんなにたくさんの宗教があるのか知りたい。
- 仏教についてこれから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
無限、真理を探究する方法。
探究にはさまざまな方法があり、そのすべてを紹介する事はできないのですが、およその方法をこれから紹介致します。
これらの道をある人は専門的に、ある人は併用しながら真理、無限、神、なるものを探究していったとお考え下さい。
それでは順番に見ていきましょう。
科学的探究
これは説明するまでもないですよね。
この大自然、宇宙の法則を、客観的な事実を積み上げていくことで知っていこう、とする方法です。
この科学の探究によって、我々の文明は大きく発展しました。
ある意味、私たちが一番「信頼している」探究手段といえるのではないでしょうか。
科学的な探究の場合は「神さま」という概念は客観的に証明する事ができないので、立てていません。
しかし、神さま、という言葉を使う科学者さんもいますよね。
科学者さんの中でも、研究を深めていく中で「人間ではとうてい越えられない領域」を感じて、神さまの存在を感じざるを得ないような境地に到る事があるのではないでしょうか……。
まぁ、そうはいっても科学者さんが「神さま」という言葉を使うとびっくりするのはこの根本的な「探究方法の違い」があるからなのだと思います。
哲学的探究
次に哲学的な探究です。
真理を「法則」として知ろうとする道です。
真理を「推理(すいり)していく道」ともいえるかもしえませんね。
科学者の探究に似ていますが、科学者が徹底的に「実験」によって「客観的な真実を突き止めよう」とするように「徹底的な思考、推理によって悟りに到ろう」とする道です。
基本的に真理を「法則」として探究しているので、哲学的探究では「信仰」は必ずしも必要とはされません。
いまから無限を悟ろう、というのに、特定の信仰や思想を持つことは「限定」を生んでしまう事になりますからね……。
くわしく学びたいときは、こちらを参考にしてみて下さい。
『ギャーナ・ヨーガ』 日本ヴェーダーンタ協会 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著
信仰的探究
次は信仰の道です。
真理の法則を「全能の神」として知ろうとする道ですね。
その中でも神さまを
人格神として信仰(神さまを人格のある存在として拝む)人たちと、
非人格神の信仰(神さまを形の無い存在として拝む)
として拝もうとする人たちがいます。
これは前回のブログで詳しく説明していますのでぜひご参考にしてみて下さい。
最もはじめる事が容易で、人間の性質にも合っている道であると言われていますが、信仰の道って「自分の信仰」に真剣になればなる程、他の人の信仰を攻撃したり、対立したり、狂信者を生みやすいという欠点もあります。
しかし無限の真理を信仰を通じて求めていこうとしていくと、最終的には、一切の存在の中に神を見いだし、対立からも離れてしまう境地に到る……、といわれています。
ここまでくると「無限の真理を神さまを通じてを悟った」といえそうですが、そいういう意味では罠が多く、難しい道である、といえるかもしれません。
くわしく知りたい方はこちらで
『バクティ・ヨーガ』日本ヴェーダーンタ協会 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著
奉仕の道
次は奉仕の道です。
「奉仕する事が(悟りや神に到る)方法なの?」と、思いませんでしたでょうか?
これは「私」というエゴをなくした行為(働き)によって悟りにいたろう、とする方法です。
カルマには「行為」という意味があるのですが、自らの行為を清め、神や悟りに近づこうとする道になります。
くわしく知りたい方はこちらで。
『カルマ・ヨーガ』日本ヴェーダーンタ協会 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著
瞑想的探究
次は瞑想、ヨーガによって探究しようとする道です。
ヨーガにはたくさんのポーズがありますが、ヨーガという言葉には本来「結ぶ」という意味があるそうです。
瞑想やヨーガによって体という限界を超えて、無限なる存在との結合を求めたのでしょうね。
くわしく知りたい方はこちらで
『ラージャ・ヨーガ』日本ヴェーダーンタ協会 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著
後半に続く……。