常に全体を俯瞰する。(仏教以前①)後編
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 仏教についてこれから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
中道の実践
極端と論争を超えた先にある安穏。
では、私達はどうしたら、おしゃかさまのような視点を持つことができるのでしょうか。
まずは「中道」といって、常に偏らない視点をもつことのようです。
等しい、とか、優れている、とか、あるいは劣っているとか考える人は、その思いによって自ら争いを生むでしょう。
しかし、等しいとか、等しくないとかの無くなった人は誰と論争するのでしょうか。
人格を完成した人は、両極端に近づかないで『中道』によって教えを説くんですよ。
「中道」については、ページを改めて、詳しく解説させて頂こうかと思っていますが、中道とは、何か一方に偏らず、常にバランス良く物事を観察していく、という事ですね。
そうして「中道」の実践を行う中で真理に到った人は、争う事がなくなるようです。
私は世間とは争いません。
しかし、世間が私と争うのです。
一切の哲学的な断定を捨てたならば、人はこの世で確執(争い)を起こすことがなくなります。
真理は一つであって、第二のものは存在しません。
その真理を知った人は争うことがなくなくなるのです。
この本を読むと分かるのですが、おしゃかさまは当時、再三にわたって、
「論争することの無意味さ」を説いていらっしゃったようです。
自分だけをすぐれたものと思ってはいけませんよ。
無論争の境地こそが安穏なのです。
悟りの境地である涅槃(ニルヴァーナ)とは「安らぎ」とも訳されます。
悟り、解脱、涅槃、理法、とは「一切のこだわりを超えた先にある」のでしょう。
「何かを掴んで固着している」状態では、真の安らぎは得られないという事なのでしょうね。
「無論争」の解脱の境地まで行くことは誰にでも出来る事ではなさそうですが「私の説が唯一正しい」と言っている人や集団と、おしゃかさまの『解脱』の内容やレベルは「明らかに違う」という事を私は伝えたいと思うのです……。
これらのポイントは、今まであまり取り沙汰されてこなかった事ではありますが、とてもとても大切な所ではないかと、私は思うのですよね……。
歩く時は右足、左足、と出す。
私たちは前に進もうとする時、右足、左足、と、順番に足を出します。
これが、右足、右足と、片方の足ばかり出していたらだんだんと偏っていき、いつか倒れてしまいますよね。
一端どちらかの足をださないと前に進めないのですけれど、バランス良く前に進むためには逆の足もださないといけません。
これと同じで「真理の探究」も、自分の気に入った思想(利き足)から進めるのは良いのですけれど、別の思想(逆の足)も無かったことにせず「なぜ存在するのか」と吟味して一端中心に戻らなければ(中道)、どんどんと思考も偏って……いつかは倒れてしまうのではないでしょうか……。
私は、自分がバランスを失わない為にも「真理の探究を進めていくならば、常にこのような態度で実践していった方が良いのだろうな……。」と思っているのです。
まとめ
如何でしたでしょうか。
おしゃかさまは、解脱、という悟りの最終地点は、「これしか救われない」とか言っている(哲学的断定)を越えた先にあるんですよ、とおっしゃいました。
さらにおしゃかさまは、
無論争の境地こそが安穏なのです。
ともおっしゃっています。
わたしはこのサイトを通じて、いろいろな説を否定するつもりはありません。そうではなく、
「Aが正しいかBが正しいか、ではなく、なぜ世間にはAとBという思想があるのだろう。」
「そこに共通する真理はなんだろう」
と、より「俯瞰的で中立的な立場」で物事を観察していく道を伝えていきたい、と思っているのです。
なぜなら、論争を越えた先にこそ、ブッタの求めた真の安らぎ「涅槃(ねはん)」があるのですから……。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
合掌 くてい 拝