常に全体を俯瞰する。(仏教以前①)前編
前回は、私がお坊さんの道を目指したきっかけと、このブログ全体でお伝えたい思いについてお話させて頂きました。
今回は、私が真理の探究に一番大切だと思ってきた考え方についてお話をさせて頂きます。
- 仏教についてこれから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
根源的な悩みにぶち当たる。
どれが正しいのか?
宗派の道場に入った私に生まれた疑問があります。それは「なぜ、世間には、こんなにたくさんの宗教、宗派があるのだろう?」という事でした。
共通している事は、どの本の宗教・宗派の先生も「自分の説が正しい。他説(宗教・宗派)は劣っている。」と言っている所でした。
当時の私は「この中で、誰の見解が一番正しいのだろう?」
と、自分が知り得たその中から、どれか一つ「真実の道」を選ぼうとしていました。
しかし「どれか一つ」を選ぼうとすると難しいんですよね……。
なぜなら、どの道もそれぞれに魅力があったからです。
ここで、自分の所属する、宗教宗派の正当性を主張する為に、他宗、他宗派を非難する……なんて方もでてくるのですが……。
私は、他宗派の教えで「この部分、分かる~。」と思える所があった時、自分の所属している宗派の教えと矛盾していても「無かったこと」にはしたくないと思いました。
逆に「なぜ、このような矛盾が存在するのだろう?」と、そここそ、知りたいと思いました。
だからこそ、なんですが、たくさんの「正しさ」がある事を知って当時は「混乱」したことも事実です……。
そんな時に出会ったのが、。東京大学名誉教授で、仏教学、インド哲学の大家であられた、故中村元先生(1912~1999)の『原始仏教』という本でした。
読んだ時「お坊さんとしての立ち位置」に、はじめて気付かされた気がしました。
この本は内容が学術的なので、以後、内容を紹介したい時は、簡単な私の言葉で紹介しています。もし内容に興味をもったら、ぜひ、本を読んでみて下さいね。
対立を超える。
この本によるとおしゃかさま自身が、このように言っていたそうです。
或る人々が「最高の教え」だと主張する教えを、他の人々は「劣ったもの」であると言いっています。
彼らは「自分たちこそが真理に達して完ぺきである!」と主張していて、他の人の教えを劣ったものであるというのです。
彼らはこのように。お互いに違った意見を持って論争し、それぞれが自分の仮説を「真理である」と説いています。
でも、もしも「誰かに非難されていたら、それはもう完ぺきな教えではない」というならば、諸の教えのうちで、勝れたものは一つもないことになってしまいます……。
しかし、かれらの立場の根拠を検討してみると、必ずしも一様ではないですが「お互いに争いあっている」という点では共通していますよね。
そんな風に議論を続けていると、かれら自身が、他の人との間に確執をもたらす事でしょう……。
世間の人たちは「自分の説」にこだわり過ぎているのです。
これは私の感じていた事、そのままだったので、とても納得できました。
おしゃかさまご自身が「世間の人は『自分の考え方だけが正しい』と言って争っていますよね。」「それは、自説にこだわり過ぎです。」とおっしゃってる事にはおどろきました。
今も昔も、変わっていないんですね……。
そして、そのような「対立を越えた先」にこそ真理がある事を、このような喩えで説明されています。
昔、ある場所に、ある王さまがいました。
その王さまは、家臣を呼んで、
「今から、市内に住んでいる、生まれながらに目の不自由な人達をすべて一つのところに集めて「象を象とは知らせずに」象に触れさせなさい。」
と命令じ、それを触ったらどのように思うか、めいめいに答えさせました。
象の頭に触れてみた人は次のように答えました。
「王さま。これは瓶(かめ)のようなものでございます。」と。
また、象の耳に触れてみた人は「これは扇(おうぎ)のようなものでございます。」と答えました。
同様に象の牙に触れてみた盲人は「剣のようだ」と答えました。
鼻をなでた人は「ホースののようだ」と答え、体に触れてみた人は「樽(たる)のようだ」と答えました。
脚に触れてみた人は「柱のようだ」と答え、背に触れてみた人は「板のようだ」と答えました。
尾に触れてみた人「ムチのようだ」と答え、尾端に触れてみた人は「ホウキのようだ」と答えました。
そして、かれらは互いに拳をもって争いを始めたのでした。
その姿を観て王さまは家臣にこういいました。
「象とはあんなものでも、こんなものではない。象は、あのようなもの (全体)だ。」と。
それと同様に、諸の宗派に所属する修行者たちは
「自分の見解だけが正しい」
と主張して……、口論をして、論争をして、議論におちいって、鋭い舌鋒をもって、お互いに他人を突き合いながら日を送っているのですよ。
これは私にとって「新しい視点」でした。
対立している時点で「その思想(視点)は完璧ではない(まだ相対的である。)」というのです。
「それぞれにすばらしいAの教えと、Bの教えと、Cの教えの中の、どれが正しいのだろう?」としか比べられなかったので、この視点は衝撃的でした。
禅の言葉に
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん。
「臨済録」
という言葉があります。これは本当に誰かを殺す、という話ではありません。
「一度つかんだモノを離さなければ、真の悟り(解脱)を得ることはできない。本当の悟り(解脱)とは全てを手放した先にある。」といったような意味でしょう。
厳しい修行の結果、神仏に出会う事ができたのなら…素晴らしい体験かもしれませんが、自分が偉いと勘違いをして、自ら教祖さまになってしまうかもしれません。
素晴らしいお師匠様や教えに出会える事は、本当に得難い事ですが、依存、妄信を伴ってしまうと、「他の道を選ぶものは間違っている」と排他的になってしまうかもしれません。
どちらも、出会ったものは「良いもの」なのかもしれないけれど、それを絶対視して掴んでしまった結果「何かしらの限定」「哲学的断定」におちいっています…。
これは、先のお釈迦様の喩え話と同じ事を言っていますよね。
そうなっては、その先にある「お釈迦様が至った境地(涅槃)」には至れない、というのです。
後半に続く……。