「信じる」について。(仏教以前⑫)
みなさん、こんにちは。
今回は「仏教における『信じる』ということ」についてお話ししたいと思います。
以前も同様のテーマでブログを書いたことがありましたが、今回は特に「仏教って怪しくない?!」と感じている方に、ぜひとも読んでいただきたい内容になっています。
【以前のブログ】
それでは、どうぞよろしくお願いします。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
- 「信じるって、そもそもあやしい」と思っている方
宗教と「信じる」ってこと。
「宗教」って聞くと「何かを信じるあやしい集団」ってイメージがありませんでしょうか?
「神様とか仏様」って、いるかいないか分からない存在を信じなきゃいけなかったり…。
「絶対、騙されるもんか!」って思いますよね……。私も同感です(笑)
でも、ちょっと待ってほしいんです。
実は、「信仰を持たなくてもいい宗教」もあるんですよ。
二つの仏教
お釈迦様の死後、弟子たちの間で教えの解釈をめぐって対立が起こり、仏教は大きく二つに分かれました。
一方は、より伝統的な教えを重視するグループで、スリランカやタイ方面に伝わっていきました。この仏教を「南伝仏教」または「上座部仏教」といいます。
もう一方のグループは、より多くの人々を救済するために革新的な教えを説き、インドから中国を経て日本に伝わりました。この仏教を「北伝仏教」または「大乗仏教」といいます。
この二つの仏教の大きな違いの一つは「信仰」について、です。
元々、お釈迦様の教えには、特定の神や超越的な存在への信仰は含まれていませんでした。そのため、上座部仏教には、そのような「信仰というもの」が基本的にはありません。
一方、大乗仏教は、伝播していった各地の既存の信仰と対立せず、それらを自身の宗教体系の中に取り込んでいきました。
その結果、大乗仏教には、さまざまな神仏への信仰が生まれることになったのです。
大乗仏教における「信」
大乗仏教には、さまざまな神仏が存在します。
観音様にお不動さま、お地蔵様、毘沙門天さま、弁天さまなどなど……。
一般的には、そうした神仏の存在を「信じる」ことを「信仰」っていいますよね。
密教には「加持(かじ)」という言葉があります。
真言宗を開かれた弘法大師空海さまは、加持について次のように述べています。
加持とは大日如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加と言い、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。
『即身成仏義』
ちょっと難しい言葉が並んでいますが、簡単に言うと、
- 「加」 とは、大日如来さまの大きな慈悲の力が私たち衆生に注がれること(加わること)。
- 「持」 は、私たちがその慈悲の力をしっかりと受け止めること。
を表しています。
又、、浄土宗を開かれた法然上人が詠まれたお歌に「月影の歌」というのがあります。
月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の 心にぞすむ
浄土宗『宗歌』
意味としては「月の光の届かない里(場所)はないけれど、その光を眺める人の心の中にこそ、その光が澄んでいくのだ……。」といったところでしょうか。
この二つの言葉はよく似ていますよね。
神仏の救いの光は、すべての人々に平等に届いているけれど、それを受けとろうとした人の心が神仏に向いたときにこそ、その加護の力が顕れるのだ、といった所です。
中には「その信心さえも、如来さまから頂いているのだ」とする、浄土真宗の考え方や、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し……」といった「その思い込みさえ捨ててしまえ!」とする禅宗の考え方もありますが、そこらへんの説明は、それぞれの専門家にまかせるとして……。
これらの言葉は、一般的な大乗仏教における「信心」の考え方についてよく説明されていると思うのです。
上座仏教における「信」
一方、上座仏教では「信じる」ということは、私たちが一般的にイメージするような「信仰」とは全く違います。
上座仏教が大切にするのは「自分で確かめ、理解すること」です。
まず私たちができることは[お釈迦様が教えた修行の内容を聞くこと]です。
そして、まずは「自分にも実践できる」と思うしかありません。
ここで「できる」と信じるだけで実践しなければ、何も始まりませんからね……。
そして実践していくうちに、だんだん慣れてきて「理解」が進み「ああ、お釈迦様のおっしゃったことは本当だったんだ」と納得します。
これが上座仏教の定義する「信」なのです。
例えば、自転車に乗る方法を知らない子どもは、他人が自転車に乗っているのを見て、それが「自分にもできる」と思います。しかし「できる」と信じるだけで実践しなければ、いつまでも自転車には乗れるようにはなりません。
そして自転車に乗り始めると、バランスの取り方やペダルの踏み方を理解し、最終的に自分で乗れるようになり、乗り方が正しいことに納得します。
上座仏教では、このように自ら実践し、自分で確かめて納得したことを「信」と呼んでいるのです。
上座仏教の教えで「信」とは「確証を得れなくても、信じる事から始まるのだ!」といった意味ではなく、むしろ「理解が生まれること」を意味しているのです。
それでは具体的に、どのようにしてその「理解」へたどり着けば良いのでしょうか?
上座仏教では、自分で真実を確かめるための10個のポイントが示されています。
- 神々から伝えられたからといって信じるな
- 師匠の言葉だからといって信じるな
- 噂で聞いたからといって信じるな
- 聖典に書かれているからといって信じるな
- 論理的に正しいからといって信じるな
- 自分の考えと一致するからといって信じるな
- 尊敬する人が言っているからといって信じるな
- 表現方法が上手だからといって信じるな
- もっともらしく聞こえるからといって信じるな
- 聖者の言葉だからといって信じるな
これらのポイントが示すように、上座仏教では、権威や伝聞、自分の先入観にとらわれず、自分の頭で考えて真実を見極めることが重要視されているのです。
まとめ
如何でしたでしょうか。
今回のお話は大乗仏教と、上座仏教の「どちらの考え方が正しいか」といった話ではありません。
私は、個人的には、大乗仏教も、上座仏教も共に大切にしています。
例えばヒンドゥー教では、一つの宗教の中で「信仰による救い」と「信仰を全くせずに悟りに到る道」が同時に存在しています。
異なった教えが同時に共存する事もできるのですね。
今回の比較においても、上座仏教、大乗仏教、どちらにも良さがあり、どちらにもそれぞれ「合う人」がいるであろうと私も考えています。
ただ、特に「何かを信仰する事だけが宗教、仏教」と思っていた人達には、上座仏教の、こんな考え方もあったんだ、って事をまずは知って頂きたいと思ったのでした。
「何かを(疑いなく)信仰する」事による「信じられる強さ」もあると思いますし「自分で確かめ、理解すること」による「確信する強さ」もあると思うんです。
そうして「そのどちらの考えも存在している」ことを知った上で「自分の選択」をしていくことが、この「多様性の時代」の新しい姿になっていくのではないかと、私は思っているのです。
願わくば、それぞれの人が、それぞれ自分にあう道を発見し、お互いに尊重し合いながら、共に幸せになっていけたらいいな、って思っています。
生きとし生けるものが幸せでありますように……。
合掌 くてい 拝