【これ仏流】信仰との向き合い方(仏教以前⑦後編)
前編をまだお読みでない方は、こちらから先にお読み下さいね。
- 仏教について、これから学びたいと思っている方。
- 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。
二つの方法。
それでは、それぞれの宗派の理想を尊重しながら、私たちはどのように宗教・宗派と向き合っていけばよいのでしょうか……。
専修していく道。
一つは、それぞれの宗派の理想を尊重しながら「自分に合った宗教・宗派の教えをたんたんとやり続ける」という方法です。
おしゃかさまの喩えに、こんな話があります(分かりやすく文章をかみ砕いています)
譬え話をしましょう。
今、あなたの目の前に、大きな川があります。
こちらの岸は治安が悪くて危険ですが、あちらの岸はどうやら安全です。
そこであなたは「あちらの岸にわたろう」とするのですが、なんと、どこにも船がない。
そこであなたは考えました。
「船を作ってあちらにわたろう、と」と。
ふむふむ。
あなたは、あたりに落ちている木や、不法投棄された発砲スチロール、ラクガキされた板などを集めてイカダをつくります。
そして無事、反対の岸にわたる事ができました。
不法投棄された発砲スチロール……。
ラクガキされた板……。
確かに、治安が悪そう……。
あぁ……ボク……。脱出できたんスね!
良かったっス!
そこであなたは考えました。
「このイカダは私を救ってくれた。だからこのイカダを背負って歩いてこれからも歩いて行こう」と。
それは正しい判断でしょうか⁈どう思いますか?
う~ん、また必要になるかもしれないからな~。
でも、もう川は渡ったんだから、もいイカダはいらないでしょう。
持って行く必要はないと思います!
そう。それと同じく、あなたは、あなたを真理にまで導いた方法論でさえもいつかは捨てなければ「解脱」には至れないのだよ。
な、なるほど……。深いっす……。
真理とは「限定を越えた普遍的なもの」です。
そこに到る為にはイカダ(宗派、信仰、方法論)が必要なのですが、川を渡り終えたら(全てに真理が宿っていると理解出来たらのなら)その時はイカダを手放さなくてはいけません。
しかし選んだ方法によって悟りを得る事が出来たとしたら「この方法が全てだ」と方法論に固着してしまうかもしれません。しかし「それは迷いだ」というのです。
そもそも、この喩えの考え方でいけば「私は解脱した!」と言いながら「私の乗ってきたイカダは悟りに至る唯一のイカダであり、他のイカダは劣っている」と言っているとしたら……。
その方はまだ解脱には至っておらず、さらには対岸の岸にではなく、まだ「中州」に留まっているだけなのかもしれませんよ……。
以前、お話させて頂いた事でもありますが、多くの人が選んできた修行方法には、その方法を選んだ人をバックアップする「フィールド」ができあがっています。
特定の宗派の方法論を専修していく、という方法は「ゴールに到る為には、理想的な方法」なのかもしれませんよね……。
とにかく専修しながらも「他の宗教、宗派、方法論の理想をも尊重できる」というのが、我々人類が争いをなくし、バランス良く道を進んでいく為に必要なのではないかな……と私は思うのです。
わたしはこれから、人々の宗教に対する考え方が、そのようになって行くのではないかな……と思っています。
全体を探っていく。
もう一つの方法は、先の象の喩えで考えるならば「触れた場所から手探りで象の全体を探っていく」という方法です。
なるべく一つの方法に固着せず、全体を俯瞰しながら「共通する真理はなにか」と探っていく、という方法ですね。
こういう方法はヴィヴェーカナンダさまがいう所の「哲学的探究(ギャーナ・ヨーガ)」に似ているのかも知れません。おしゃかさまの探究方法もこれに近いのではないか、と思います。
私はこの方法が好きなのですが、もし「どの宗教・宗派に所属しても近視眼的、狂信的にはならない」と思えるなら、自分の気に入った修行方法を選びながらも常に「全体的に俯瞰していく」という方法が偏らず、一番早く成就できるかもしれませんよね。
結局、二つの道を紹介しましたが、最終的な結論はどちらも同じになってしまいました(笑)
おわりに。
社会の構造が急速に変化しつつある事は、多くの方が感じている事だと思います。
しかしどんなに社会の構造が変わっても「真実を求める人の心」は変わらないのではないでしょうか。
宗教の在り方も、それに合わせて変化していける事が望ましいと思いますが「組織」となってしまったものが変化をするのは大変難しいと思います。
ただし「我々の宗教との関わり方」はどんどん変わっていくのではないでしょうか。
そして変わっていって良いのだと思うのです。
ここで私が書かせて頂いた事は、そうした未来に対する私の願いでもあり、想像、予感でもあります。
今までのような対立的な宗教観を越えて、全体を俯瞰し「互いに補い合いながら尊重しあえる真理探究の世界」が広まっていってくれる事を私は望みます。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
くてい拝