仏教以前の話。

死者の為にできること、自分の為にできること。/後編(仏教以前⑪)4/5

what can i do for myself
kutei

今回は五回シリーズとなります。
まだ1/5をお読みでない方は、そちらから先にお読み下さいね。

合わせて読みたい
死者の為にできること、自分の為にできること。前編(仏教以前⑪)1/5
死者の為にできること、自分の為にできること。前編(仏教以前⑪)1/5

今回は、前編、中編(1~3)の内容を基礎にして、今回は自分の死に対して生きている内に「何が出来るのか」についてお話させて頂きたいと思うのです。

こうしたテーマに関しては、さまざまな方が、さまざまな立場からお話していることと思いますので、そうした内容も自身の関心の方向に合わせて参考にされてみてくださいね。

そんな中、私は、仏教の考え方に軸を置きながらも、特定宗派に依らない内容としてお話していきたいと思っています。

それでは、よろしくお願い致します。

こんな方に読んで欲しい。
  • 死後の世界を知りたい。
  • 死に対して、生きている内に自分が出来る事を知りたい。
  • この世を安心していきたい。
  • 仏教について、これから学びたいと思っている方。
  • 宗教・宗派の「〇〇だけが正しい」という話に疲れてしまった方。

反応の話。

今回は最初に「反応の話」というのをさせて頂きます。

このお話は、今回のテーマにとても深く関わってきます。

通常、私たちは「私は(ある程度)自由に、自分の意思で生きている」と思っているのではないでしょうか……。

でもこれはどうやら「実際はそうでもないらしいゾ……」というお話なのです……。

「反応」は自動的に。

例えば、空がなんだか曇ってきたとします。

すると「雨が降りそうだな」と思います。

又は、お腹がグルグルと鳴りました。「今日の晩ご飯は何にしようかな」と、フと思います。

では、ここでちょっと自分の感覚に聞いてみてほしいのですが…………。それって今、あなたが「考えた」事なのでしょうか?

いえ、きっと違いますよね。とっさにそのように「思いついた(浮かんできた)」という方が正しいのではないでしょうか。

そうなんです。私達は、自分ですべて考えて行動しているように思いますが、実際は外界の出来事に「反応」して生きているようなのです……。

react with emotion
人はとっさに感情で反応してしまう。

そしてその「反応」を「自分の自由な発想(意思)」だと思っているし、さらにその「反応」によって次の行動も決めているのです。

お腹の中にある感情。

お腹が空いたとき、どこからかウナギを焼いた匂いがしてきたら「今日はウナギにしようかな」と思います。そしてウナギを買います。

最初からウナギを買うつもりはありませんでした。外からの刺激に「反応して」次の行動が生まれてきたのですね。

スーパーのレジで並んでいたら、割り込んできた人がいました。反射的にイラッとします。

Reactions vary according to emotions.
お腹にある感情によって、人は反応が違ってきます。

そして人によっては何も言わずに終わりますが、人によっては「ちょっとあなた何やってるの」と、割り込んで来た人に注意をするかもしれません。

このどちらのパターンも、まずは自分の内側にある「感情」が反応しています。

内側に「怒り」がある人はそのような反応を。

内側に「穏やかさ」がある人はそのような反応を。

このどちらも「その人なりの反応」となりますよね。

私達は、ふと沸いてきた感情に「反応して」次の行動が生まれてくるようなのです。

これが本当なら、私達は自由に生きているどころか「心の奴隷になっている」と言わざるを得ないのではないでしょうか……。

そしてこの問題のもっとやっかいな点は「反応が次の反応を生んでいる」という所なのです……。

反応はドミノ倒しのように。

私達の反応は自動的に起こります。そして起こった「反応」によって第二の反応、第三の反応が(自動的に)生まれてきます。

Reaction continues like falling dominoes
反応はドミノ倒しのように……(永続ループ)。

渋滞に巻き込まれてイライラしました。そしてイライラした感情のままで家に帰ってきて、イライラしたまま家族に向き合うから、ふだんなら怒らないところで怒りが出てきて……。

こうして第三の反応、第四の「反応」が次々に生まれてくる訳です。

恐ろしい事ですが、私達の多くがこのように「無自覚に」生きているというのが実際のようなのです……。

これ、はじめの反応が怒りだったり、悲しみだったりすると、その次の反応、その次の反応、と、結局その人はネガティブな「反応の連続」の中で、ただただ生き続ける事になります……。

通常、私たちは「自分は(ある程度)主体的に生きている」と思っていますが、実は「反応の奴隷」となって生きているなんて……もしそれが本当なら、ちょっと怖いことだと思いませんでしょうか……。

反応の奴隷。

死ぬ瞬間の心

ここでやっと本編に入る事ができました(笑)

私はこの三部作の「前編」において、死後の世界は「階層世界」で、私たちは死後「自分の心の状態(波長)にあった世界」に移行してしまう、というお話をさせて頂きました。

transition after death
死後、自分の波長に合わせて移行する。

怒っている人は怒っている人ばかりの世界へ。

悲しんでばかりいる人は悲しんでいる人ばかりの世界へ。

明るい人は明るい人ばかりの世界に移行してしまう、という話でしたね。

そしてこの時、特に大事なのが「死ぬ瞬間の心の状態」なんだというのです。

と、いう事は、死ぬ瞬間の心さえ明るく、清らかな心にしておけば……死後、少しでも良いところに行けるかもしれない……という事になります。

しかしここにはとても大きな問題があります。

それは、私達が「反応」で生きている、という事です……。

自分の心をコントロールできない。

私たちの心の反応は「自動的」である、というお話を先に致しました。

つまり「死ぬ瞬間の気持ちが大切だというのなら、その瞬間は明るい気持ちで迎えよう」と思っていても、私達の心に思い浮かぶことは「自動的」なので、自分では選べない、という事になります……。

「もしも……」の時には、それまで自分が積み上げてきた「生き様」が全てその瞬間に顕れてしまうことになる、という訳なのです……。

それって、ちょっと、いや、かなり……怖いですよね……。

ましてや、死はいつ訪れるかが分かりませんから、事故などで突然「もしもの時」を迎えたとしたら、自分にとって「よりよい世界に生まれる為の考え方」なんて選んでいる余裕がない、という事になります……。

つまりあなたの心が普段から荒れたままならば、それは……地獄行きの確立が高い……という事にもなります……。

生きているうちも死ぬ時でさえも、自分の心の中にある感情が外の出来事に「反応」して次の行動を作っています。

つまり心の反応のままに生きていたら、私達はいつも「心の奴隷」のままになりますし、ここで心を「手懐ける」事が出来れば、私達はもっと「自分の思ったように(反応を選んで)」生きる事ができるようになる、という訳なのです。

                                  5/5に続く……。

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死者の為にできること、自分の為にできること。/後編(仏教以前⑪)5/5
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まやば くてい
まやば くてい
僧侶・カウンセラー
仏教が取り扱う範囲って結構ひろいです。私はこのサイトを通じて、これから仏教を学ぼう、という方に、まずは広い目で「仏教や、宗教のできた土台」を学んで頂き、そののちに興味の方向にあわせて学びを深めていく事の、お手伝いができたら良いな、と思っているんです。
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